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民主主義は多数決?

 「民主主義は多数決だ」と言われることがあります。たしかに選挙でも議会でも多数決が用いられています。さらに、小学校や中学校でも多数決は物事の決め方としておなじみの方法ですね。

 しかし「民主主義は多数決だ」と言い切れるでしょうか。物事を多数決で決めさえすれば、その決定は「民主的」といえるでしょうか。そうではありません。民主主義は多数決だといえるためには、いくつかの条件が満たされる必要があります。今回の記事ではそのことについて考えます。

Ⅰ.決定参加者の包括性

 多数決原理とは「決定形成参加者中の多数者の意志によって最終決定をおこなうという民主政治の基本的ゲームのルールの一つ」(内田 1994)です。多数決原理に従えば、決定の参加者のうちの多数派の意思によって物事が決まります。

 ここで重要なのは、誰が多数決の参加者に含まれるのかという点です。例えば、日本では、1945年まで女性に選挙権はなく、選挙の参加者は男性に限定されていました。参加者が男性に限定されている場合よりも、女性も参加者に含まれている場合の方がより民主的であるといえるでしょう。なぜなら、少数者ではなく多数者の意思にもとづいて政治的決定が行われる場合に、そのような意思決定は民主的だといえるからです(齋藤 2006 p. 810)。

 つまり、民主的な多数決においては参加者の包括性が重要だといえます。ゆえに「民主主義は多数決だ」といえるためには「その多数決の参加者の包括性が十分に確保されている」という条件が必要です。

Ⅱ.討論の重要性

 そもそも、なぜ多数決が必要なのでしょうか。政治学者の福田歓一によれば「単なる多数決が制度化されたのは、どうしても意思決定の必要な場合に、それに即応できるような便法として受け入れられるようになったからにすぎません」(福田 1977 p. 139)。つまり、多数決は会議体の意思決定のための便宜的な方法として採用されたのです

 多数決は便宜的な方法にすぎず、他にもそれと両立する重要な意思決定のための方法があります。それは討論(話し合い)です。民主的な意思決定においては、討論が十分になされることが必要です。

 なぜ、民主的な意思決定において、討論が必要なのでしょうか。その理由を3点挙げます。

 第1に、会議体の意思決定においては全会一致が理想的です。多数決であっても、その意思決定を全員に受け入れてもらうことを期待するならば、決を採る前に十分な討論と説得の過程が必要です(福田 1977 p. 149)。

 第2に、いうまでもなく人間の知性は完璧ではありません。もしも人間が神のような全知全能の存在ならば、わざわざ討論をしなくても正しい決定ができるでしょう。しかし、人間は神ではありません。1人の人間の知性には限界があります。そこで、複数人で意見を交わすことによって、より正しい意思決定をできるようにすることが期待されるのです(文部省 2018 p. 118-119)。

 第3に、国会や地方議会で討論が行われることは、何が問題となっており、何が争われているかを、国民や住民に明らかにするという意味を持ちます(福田 1977 p. 154)。また、国民が国会についての報道を見聞きすれば、政治の争点や政治家の発言を知ることができ、投票先を選ぶ際などにもそれらを考慮に入れることができます。

 これらの理由から、多数決においては討論が必要です。ゆえに「民主主義は多数決だ」といえるためには「その多数決の前に討論が十分になされる」という条件が必要です。

Ⅲ.多数決は擬制である

 また、多数決は多数派を全体とみなすことで成り立ちます。この点について簡単にまとめます(福田 1977 pp. 137-148、山口 2013 pp. 64-65)。

 例えば、100人からなる議会で、ある税金の導入の是非を多数決で決めることになり、賛成51人、反対49人でその税金の導入が決まったとしましょう。この意思決定は、51人の多数派の意思を議会全体の意思とみなすことで成り立ちます。そうでなければ、多数決の結果が議会としての決定にはならないからです。多数決は多数派を全体とみなすことで成り立つのです。

 「擬制」という言葉があります。これは事実でないものを事実とみなすことを指します。多数決はまさに擬制です。なぜなら、多数決は、全会一致でないかぎり、実際は全体ではない多数派を全体とみなすことで成り立つからです。福田によれば「多数決というものは一つの擬制にすぎない。現実には多数にすぎないものを全体とみなすわけですから」(福田 1977 p. 139)。多数決は意思決定のための擬制なのです

 多数決という擬制においては、多数派は全体とみなされますが、だからといって少数派を軽視してよいわけではありません。民主的な意思決定において、少数意見が十分に尊重されることが必要です。

 なぜ、民主的な意思決定において、少数意見の尊重が必要なのでしょうか。その理由を3点挙げます。

 第1に、私たち人間はあらゆる点で多様です。境遇も考え方も人によって様々です(文部省 2018 p. 108)。そうであれば、当然、どんな問題についても、多様な視点があることになります。もしも、少数意見が尊重されなければ、そうした多様な視点が活かされず、議論の視野が狭くなってしまう可能性があります。

 第2に、少数派が正しい場合も、多数派が正しい場合も、どちらの場合でも少数意見の尊重は有意義です(文部省 2018 p. 118)。もしも少数派の意見が正しいのに、それが無視されれば、その会議体は多数派の誤りを正す機会を失ってしまいます。また、もしも多数派の意見が正しいとしても、少数派の意見の吟味を経た多数派の意見は、より確かな基礎におかれることになるでしょう。

 第3に、少数意見の尊重がなければ、多数決は「多数者の専制」になってしまいます(内山 1999)。多数者の専制とは、多数派が数の力で少数派を抑圧することです。もしも多数派が少数意見を尊重せず、何でもかんでも多数決で決めてしまえば、強い者が弱い者を数の力だけで抑えつけることになってしまいます。

 これらの理由から、民主的な意思決定において、少数意見の尊重が必要です。ゆえに「民主主義は多数決だ」といえるためには「その多数決の前に少数意見が十分に尊重される」という条件が必要です。

おわりに

 以上の話をまとめると「民主主義は多数決だ」といえるためには、少なくとも次の3つの条件が満たされる必要があります。

① その多数決の参加者の包括性が十分に確保されている
② その多数決の前に討論が十分になされる
③ その多数決の前に少数意見が十分に尊重される

 これらの条件が満たされていない多数決は民主的とはいえません。

 1948年に文部省は民主主義についての教科書を出版しました。この本では次のように指摘されています。

かくのごとくに、多数決の結果を絶えず経験によって修正し、国民の批判と協力を通じて政治を不断に進歩させていくところに、民主主義のほんとうの強みがある。少数の声を絶えず聞くという努力を怠り、ただ多数決主義だけをふりまわすのは、民主主義の堕落した形であるにすぎない。(文部省 2018 p. 120)

 この指摘は重要です。「多数決で決まったことだから」といってその決定を絶対視することなく、その結果を修正し、少数派の意見も聞きながら、政治を進歩させていけるという点に民主主義の利点があるのです。

 読んでくださって、ありがとうございました!

参考文献

内田満 1994「多数決原理」(見田宗介/栗原彬/田中義久編『〔縮尺版〕社会学事典』弘文堂 p. 588)
内山秀夫 1999「多数決原理」(阿部齊/内田満/高柳先男編『現代政治学小事典〔新版〕』有斐閣 p. 290)
齋藤純一 2006「民主主義」(大庭健編集代表『現代倫理学事典』弘文堂 pp. 810-812)
福田歓一 1977『近代民主主義とその展望』(岩波新書)
文部省 2018『民主主義』(角川ソフィア文庫)
山口二郎 2013『いまを生きるための政治学』(岩波書店)

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