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【自伝小説】最南端の空手フリムン伝説|著:田福雄市@石垣島|第10話 七転八倒編(2)

黒帯ファミリー

フリムンファミリーを筆頭に、当時は親子で道場に通う生徒がかなり多かった。

そんな中でも、この親子は記憶に残るファミリーである。

当時の新聞でも大きく掲載されたが、道場の歴史の中で“親子全員”が有段者となったのは、これが最初にして最後であった。

左から長男、父親、長女

更に40代という年齢で黒帯を取得したのもK俣初段が初。当時は40代で道場に通う者は殆ど居らず、黒帯を取るなど想像も付かなかった時代である。

そんな時代にあって、有段者まで昇り詰めたのは流石としか言いようがない。

ちなみに、どの分野にも必ずパイオニアなる者は存在する。

誰かが何かを成し遂げると、必ず後に続く者が現れるものだが、最初にやろうとする者は圧倒的に少ない。

それは、殆どの人間にリスクを背負う“勇気”がないからである。

よって、誰も足を踏み入れた事がない“未開の地”である事を知りながら、最初に踏み込んだ者はそれだけで特別な存在なのだ。

こうしてK俣親子の快挙を機に、その後も壮年での黒帯取得者や、親子、兄弟、姉妹での取得者は後を絶たず、現在に至っている。

これも全て、K俣親子の偉業の賜物である。

ちなみに石垣道場での黒帯第1号取得者であるフリムンに続き、第2号から第6号までの取得者は以下の通りである。

第1号(フリムン)  第2号(K太郎)
第3号(S瑚)  第4号(T尊)
第5号(T市)  第6号(K田)

武の道は綺麗ごとではない

フリムン道場の帯審査基準

極真空手の黒帯を締めるということは、人を壊せる技術を身に付けるということでもある。

よって、同時に武道精神も叩き込まなくてはならない。

いくら基本が完璧であろうが、型が抜群に上手かろうが、組手が呆れるほど強かろうが、それを抑制する心が追い付いてなければ黒帯を許す訳にはいかない。

それどころか、そういう人間には空手そのものを教える訳にはいかないとさえフリムンは思っている。

特に人を壊せる技は。

これが、指導者としてのフリムンの一貫した考えだ。

よって審査基準である「出席日数」が足りているからという考えは論外。

道場主が日頃の稽古に対する姿勢や言動を見て、それに値すると判断した者しか受けられないのが極真の黒帯ではないだろうか。

技術的なことよりも、空手に対する取り組み方や、武道家以前に人間としてどうあるべきかを伝えるのが道場である。

道場とは「道を教える場」と書く。

決して黒帯やチャンピオン製造工場ではない。それは、あくまでも付属品なのである。

そんなフリムンにも、僅か9ヵ月という短いスパンで茶帯を取得したにも関わらず、それから黒帯を許されるまで3年という歳月を要した苦い経験があった。

昇段審査も二度落ち、三度目にしてようやく許されたほどだ。

それだけ、まだ黒帯に相応しい諸々を持ち合わせていなかったのである。

あのまま一発で黒帯を取っていれば、調子に乗ってその後の修練も疎かになっていただろう。

あの頃のフリムンなら間違いなくそうであったはずだ。

所謂「天狗」というやつだ。

それを師範はシッカリと見抜いてくださっていた。本当に感謝しかないとフリムンは振り返る。

しかし悲しいかな、そんな師の思いを理解できず、後足(あとあし)で砂をかけ道場を去ってゆく者もいる(限りなく少数だが)

それはもう受け取る側の“器”の問題だが、フリムンはそれで良いと思っている。

誰でも取れる黒帯など必要ないし、そういう感謝の気持ちを持ち合わせていない者にとって、道場が居心地の良い場所であってはならないからだ。

それが道を教える場である「道場」本来の姿なのではないだろうか。

それに、人は間違いを犯す生き物である。

正しい生き方を貫いていても、いつ空手を私利私欲の道具に使用するか分からない。

それが心無い人間なら尚更だ。

よって黒帯を運転免許の如く量産したり、空手の技を誰彼構わず教えるのは論外である。

古の武道が“一子相伝”であった理由はそこにあるのではないだろうか。

そう考えると、道場主の責任は世間が思っている以上に重い。

昨今のYouTubeなどによる技術の垂れ流しも、実はかなり危険な事かも知れない。

何故なら、相手を選べないという弊害があるからだ。

長年修業を積んだ師から学ぶのと違い、YouTubeで心の持ち方を学ぶのは限りなく不可能に近い。

心無い輩がYouTubeで学んだ技を使い、善良な市民を脅かす可能性も無きにしも非ず。

決してゼロとは言えないだろう。

それだけが危惧されるところだが、Youtubeのお陰で選手のレベルが格段に上がったのもまた事実。

プラス面の方が多いのは言うまでもない。

今や空手も競技化の一途を辿り、試合の結果のみが要求されて久しい。

フリムンも競技選手として長年結果を追い求めてきたので気持ちは分からなくもないが、ただ、それと昇段は別物であると考えている。

試合は強ければ結果を残すとことは可能だが、黒帯を、強いという基準だけで与えてはいけない。

そこに武道精神(人に優しく自分に厳しく)が伴っていなければ、それはただの格闘術。

悪く言えば暴力でしかないからだ。

以上の理由で、フリムン道場の審査基準は少しばかり厳しく設定されている。

武の道とは、決して綺麗ごとではないからである。 

そんな厳しい基準をクリアした有段者の皆さん
 【有段者の昇段レポート】

こうしてその後も黒帯は誕生し続けたが、発足30年と言う歴史の中で、有段者まで辿り着いたのは僅か23名。

もちろん、辿り着けなかった数はその30倍以上にも及び、極真の黒帯が百人に一人と言われている所以がそこにある。

ちなみに審査の基準は厳しくとも、取得後の対応はとてもフレンドリーなのがフリムン道場のフリムン道場足る所以。そんな、世界でも稀な贈呈式の様子がこれである(笑)

いや、最後はタダの悪ふざけだろっ(≧◇≦)

晴天を誉めるなら夕暮れを待て

第一線から退いていたフリムンは、会長の厚意によりウエイトトレーニングを再開。

リハビリなので慎重に慎重を期し、怪我の再発を避けながら筋繊維の再生に取り組んでいた。

そんな作業が1年ほど続いた頃、気が付けば徐々に筋力も回復。

以前の70%ほどまで記録も戻った。

所謂「形状記憶合筋」である(笑)

道場での実戦稽古はまだまだ厳しかったが、それでも筋トレなら何とかなった。

フリムンの心の中に、少しだけ晴れ間が見え始めた頃である。

「よし、結果はどうあれ試合に出てみるか♡」

この世界に入ってからずっと戦い続けてきたフリムンにとって、緊張感のない空間は居心地が悪く、そんな日常に終止符を打ちたかった故の決断であった。

こうして再びパワーリフティングの試合に向けたトレーニングが始まった。
頸椎ヘルニアを発症し、早2年の月日が流れていた。

2008年。県立武道館にて開催された「第60回県民大会パワーリフティング競技」に、八重山代表として出場したフリムン。
最後に出場した大会から早4年の月日が流れていた。  

応援に駆け付けた極真の仲間たち(デカッ💦)
二人の極真世界王者が見守る中、いざ出陣

ちなみに結果は3位と振るわなかったが、それでも復帰戦にしては上出来だった。

あの頸椎ヘルニアからここまでの道のりを考えれば、半ば奇跡と言っても過言ではない。

しかし、これで満足などできるはずもなく、気持ちを切り替え、翌年の県民大会目指し元の階級に下げる事にした。

そう、引退期間にかなり体重が増加。
90㎏を越えていたからだ。

(いや太り過ぎやっ( ̄▽ ̄;))

それから1年という時間を掛け身体を絞り込み、意気揚々と石垣空港を飛び立ったフリムン。

今度こそ絶対に「優勝」をと気合いを入れて。

見送りに来た3姉妹と(旧空港)  
会場に詰め掛けた県内の怪物たち
応援に駆け付けた極真の仲間たち(減ってるし💦)
185㎏に挑戦する著者。体重の約2.3倍だ

結果は…残念ながら準優勝。

今回も初優勝の夢は叶わなかったが、それでもあの悪夢からここまで立ち直れたことに、フリムンは少しばかり安堵した。

そして、このまま諦めずに努力を積み重ねて行けば、いつかテッペンを獲るのも夢ではない。

そう感じたフリムンは、これまで以上にトレーニングに没頭した。

次回予告

フリムン、肉体改造で筋肉革命!次回「覚悟の力」、見逃すな!

次号はこちら


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この記事を書いた人

田福雄市(空手家)
1966年、石垣市平久保生まれ、平得育ち。
八重山高校卒業後、本格的に空手人生を歩みはじめる。
長年に渡り、空手関連の活動を中心に地域社会に貢献。
パワーリフティングの分野でも沖縄県優勝をはじめ、
競技者として多数の入賞経験を持つ。
青少年健全育成のボランティア活動等を通して石垣市、社会福祉協議会、警察署、薬物乱用防止協会などからの受賞歴多数。
八重山郡優秀指導者賞、極真会館沖縄県支部優秀選手賞も受賞。


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