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こんにちは、まるです。

このタイトルの言葉。

いろんなところで聞きませんか?
私自身なんとなく耳にタコができるくらい聞いてきた気がしますよ。

で、皆さん、これって具体的にどういうことかわかりますか?

私は、それを聞くたび「ウンウン、主体的に生きなきゃね!」とか思っていましたけど、なにをどうすれば主体的なのか、今ひとつ、いや今みっつくらいわかってませんでした。

主体的って、なにさ。

Googleさんによると
「主体的」とは
⑴自主的に行動する。自らの意思や判断を尊重して実行する
⑵他に強要されず、また嫌々や衝動的でもなく、自らの意思決定で自発的に行動に移ること

という説明がなされています。

ふむ。わかったような、わからないような。
やっぱりふわっとしてて、つかみどころがない。

いや、分かるんですよ。主体的。イメージはできるんだけど、具体的な行動と言われるとどうすればいいのかわからないな。

その、一つの答えをよっこさんこと横川裕之さんの「自己紹介セミナー」で受け取ってきました。

例えば、こんなワークがありました。

① 二人がペアになり、片方がもう片方の腕を持つ。
② 腕を持たれた方が、腕を引っ張る。→腕を持っている方は腕が動かないように力を入れて踏ん張る。

この時、どれくらいの力で腕が動かせたか覚えておく。

③ ②と同じことをするが、この時腕を持たれている方が「私は腕を持たれている」と口に出して、腕を引っ張る。
④ ②と同じことをするが、この時腕を持たれている方が「私は腕を持たせている」と口に出して腕を引っ張る。

すると、③の場合と④の場合で、明らかに力の入り方が変わるんです。

さて、③と④で、一体なにが違ったんでしょうか?

③では、「私は腕を持たれている」と言ったのに対し、
④では、「私は腕を持たせている」と言いました。

「持たている」と「持たている」。

違いがわかりますか?

そう、「持たている」は他人の意思、「持たている」は自分の意思なんです。
つまり他人軸か自分軸か、ということです。

さて、「持たている」と「持たている」、どちらがより力が入ったでしょうか?


もちろん、そう。

持たせている」と自分軸の言葉を使った時に、より大きな力が出たんです。


……ほらほら、そこのあなた。

そんなわけないやろ」って思ったでしょう?

はい、私もそう思ってましたよ。

よっこさんのご著書「すごい自己紹介」の中でもこのようなたくさんのワークが紹介されています。
一通り読んで、

そんなわけないやろ

って思ってました、私。ええ。

でもね。体感しちゃったからね。


そう、自分軸の言葉を使うと、体が反応するんです。
よっこさんは「体の細胞が開く」という言い方をされていました。

一言自分軸の言葉を口に出すだけで、体のパフォーマンスが上がるということ。

この、「自分軸」が「主体的」ということなんですね。


もう一つ例を挙げると

私は勝ちます

私は負けません
という言葉。

どちらが「主体的」な言葉だと思いますか?


アファメーション的には「勝ちます」の方が良さそうですよね?
でも、違うんです。

勝ちます」では、そこに必ず相手が存在するのがわかりますか?
「負ける」相手がいるから「勝つ」わけです。相手が負けてくれなければ、勝てないんです。

反対に「負けません」は、相手は関係ありません。自分が「負けない」と決めるんだから。

つまり、「勝ちます」は他人軸の言葉、「負けません」は自分軸、つまり主体的な言葉、というわけです。

これも、腕ずもうを使った対人ワークで調べてみました。(手順は先ほどのワークと同じ)

すると圧倒的に「私は負けません」の方が力が強くなりました。(ホントよ)

このように他人の意思や行動が介在しない、自分の意思を表した言葉が「主体的」な言葉なんですね。


ここで注意点ですが、「主体的」な言葉は人の受け取り方によって、変わる場合があります。
それはその言葉に対しての感受性の問題なので、全員が全員「主体的」と感じる言葉が同じ、ということにはなりません。

もしかすると、人によっては「勝ちます」の方が主体的な言葉と体が認識するかもしれません。

体は正直。

だから、何かキーワードになるような言葉を思いついたら、例に挙げたような対人チェックをして、体に判断してもらうのがいいのです。

なにが自分にとって主体的な言葉なのか、人の言うことを鵜呑みにせず自分で調べる。

これも主体的な行動ですね。

さて、主体的な言葉は体の細胞を開き、体のパフォーマンスを上げることがわかりました。
体のパフォーマンスだけではなく、心のパフォーマンスも上がります。

なら、普段の生活の中で口から出す言葉が全て「主体的」な言葉になったら?

人生のパフォーマンスが大きく高まっていくのは必然。

普段、私の使っている言葉は、他人軸になっていないだろうか?
他人の意思に身をゆだねるような言葉を使ってないだろうか?

AさんがBさんの腕を持っているような状況でBさんが「Aさんに腕を持たれた」と思うのか「Aさんに腕を持たせた」と思うのか。

言葉のチョイスの癖や思考の癖は一朝一夕に治るものではありませんが、「主体的=他人が介在しない自分の意思」な言葉はきっと大きな変化をもたらしてくれる、と信じて日々意識していきます。


*今回のnoteは意識して「思います」とか「だそうです」と言う言葉を使わないようにしてみました。何か印象は違ったでしょうか?

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