ガラス越しの世界 #2  部屋が鳴いている


部屋が鳴いている、と書くと、気取った言い回しだなあ、と思われそうだけど、本当に鳴いているのだ。壁に触ると、細かい震えが手に伝わってくる。どうも水道管が鳴動しているらしい、ということがここ数か月で解ってきた。ブーン、がたがた。水道を使うたびにそんな唸りが壁の奥から低く伝わってくる。フローリングの床に座っていても、尻にまで振動が伝わってくるほどだ。

僕が住む1Kのマンションは、四角いタイルに覆われた五階建ての軽量鉄骨だ。タイルは白くつやつやしていて、建物の飾り気のない武骨な外観は、ともすれば公園にありがちな小さなトイレみたいにも見える。単身者向けで家賃が比較的安い。高所得者の一軒家が並ぶ住宅地に、肩身狭しげに建っている。駅から歩いて5分の好立地で、坂の上から駅前を見通せる。

昨年仕事を辞めてから一年近くが経つ。それ以来、南向きで東と南の窓から豊かな採光を得られる角部屋は、僕にとっては居心地のいい監獄の様な場所となった。なまじ貯金があるから再就職に消極的で、無気力と怠惰という悪徳が鉄格子となって未来への視界を阻んでいる。じりじりと過ぎていく時間の中で、焦りと自己嫌悪が蓄積していく。

早朝の散歩を終えて、エアコンの冷気を感じながらこの散文を書いていると、回りの部屋の住人たちが起き始め、洗顔やら歯磨きやらを始める。彼らが水道の栓をひねるたびに壁の中の水道管が鳴動する。腹をすかせたヒグマのお腹こんな音を立てるんだろうな、と思わせるようなグルグル、ゴロゴロという音をたてて。対応の悪さでネットでも名高い管理会社は、対策を要請してもなかなか動こうとしない。なんでもポンプの圧力が上手く設定できていないから、業者を派遣する予定だが、なかなか日程を組めない、というような話だった。困ったものだ。

一週間ほど前、ユニットバスの天井にある点検扉を開けて、配管を調べてみたことがある。ペンライトで周囲を照らしてみると、剝き出しのコンクリに囲まれた狭い空間の奥に、数本のパイプが走っていた。異常らしき個所はどこにも見当たらない。水が漏れている様子もなかった。そもそも今自分が見ている配管が、水道なのかガスなのかもわからない。だが、どこかがおかしいから、出る筈のない音が出ている。
 
 ふたを閉めて、椅子から降りる。風呂場を出るとき、バスタブにパイプと木材で出来た椅子の足がカツンと当たる。こんなに小さな居住空間の中で、僕はさほど窮屈さを感じずに毎日を生きている。社会における僕という存在が、きっとあまりにも小さすぎるから、狭い生活空間にむしろ安らぎを感じているのだろう。布団の繊維に潜り込んで満足している蚤を笑えない卑小さだ。

窓の外には、薄い雲が青空の向こうから白くたなびいている。美しいけど、つまらない世界だといつも思う。ベランダには分別済みのゴミを入れた袋がいくつか置いてある。その隣には、少年ほどの背丈に育ったガジュマルの鉢植え。それらが、レースのカーテン越しに、夏の陽射しを受けて白く輝く様を見ているだけで、そこに現れる平凡な美に見とれてしまう。

楽しさは自分で創り出していくものだ、と理屈ではわかっているものの、どうでもいいと思ってしまう。努力もせずに不満を言う子供のような態度が、ほめられたものではないと言うことは自分でもわかっている。スピリチュアルの世界では、世界はそれを見る人の鏡だという考え方があるそうだ。世界がつまらないと感じるのなら、それはあなたという人間のつまらなさを映し出しているからだ。そう言いたいらしい。
 
昔から感じていた、世界への失望と幻滅。その味は、噛み飽きたジャーキーのように薄まってはいるが、無くなることはなさそうだ。どうして自分は一人なのか、肉親さえ他人のように感じるのはなぜか。人との距離を縮めようとしないのか。そして孤独に蝕まれながら、むしろそれに全てを食い尽くしてもらいたいと願っている自分。

今日こそ仕事を見つけなければならない。社会の中に入っていかなければならない。自分を大切に守りながら。

こうして心中を綴ることが、自分と向き合う手段になっている。常に何かを求めて自分の外の世界をキョロキョロしている眼を、時々内側に向けるのはいいことだと思う。そこに積み上げられた経験や知識がたとえ凡庸なものであっても、それらは確実に自分のものだと言える。いつか死んだときに、あの世に持っていけるのは、それだけだ。


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