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小説 月読の詩 第3話「魔女の家で」

 森をしばらく行くと、大きな木が見えて、アンナがその木の根元をつま先でこつんと蹴ると木がまるで毛糸のように柔らかくなった。

 アンナが再びつま先で蹴ると木は思い出したように大きくしなり、左右に開いてその先に階段が顔を覗かせた。どうやら、地下に魔女の家があるらしい。なるほど。これは普通に見ても気づきようがない。コルトマはその様子を見て一人感心していた。

 階段の先には扉があり、扉を開けるとそこには小さな部屋があった。リビングに小さなテーブルがあり、これまた小さなキッチンがあった。

 アンナはコルトマとアヴリエを部屋に招いた。簡素な魔女の住まいにコルトマは驚きを隠せなかった。もっと豪奢なイメージを持っていたからだ。

「いつでも引っ越せるように、最低限のものしか持っていないよ」
 とアンナは言った。魔女は同じ場所にとどまらないのだ。それは旧時代の教訓だ。
 
 かつて為政者を惑わした魔女の言説もそれほど力を持っていない。大規模な魔女狩りの後、現在どれほど魔女といわれる存在が残っているのか、今となっては判然としない。

 アンナはテーブルにコーヒーを並べた。湯気が上り、ほのかな香りが辺りを包む。コルトマは一口コーヒーを飲んだ。
 魔女の勧める飲み物に口をつけてはいけない。村の学校ではそのような教育が行われていた。
 
 魔女は飲み物に薬を入れるのだと。その薬を飲むと理性を失って相手の思うままになってしまうのだと。

 父はそれを否定した。魔女でも人でも、相手を貶めようとする人間の施しを受けてはいけない。笑顔は邪悪を簡単に隠す便利な仮面なのだ。

 父にとって相手は魔女だろうか、騎士だろうか、関係がなかった。どんな力をその内側に秘めていようと同じ人間なのだ。それを忘れてはならない。

 コルトマは魔女であるアンナを信頼していた。アヴリエが信頼している人だ。疑う理由はどこにもなかった。アヴリエもコーヒーを飲む。体に熱が宿り、その日の疲労が抜けていくのを感じた。思えば、昨日からろくに眠ってもいない。儀式が行われ、夜の出来事があった。

 アヴリエは独り残った祭儀堂の夜を思い出した。闇が溶けて、静寂が支配する空間。しかし、誰かに見られているような恐怖。孤独の中、震えていた。どれだけ衣装を厚く纏おうとも、心まで覆うことはできない。
 
 月読の使命。アヴリエはそれを知っていた。それを教えたのはほかでもないアンナである。アンナは自分の声を手紙に吹き込み、伝書鳩を飛ばした。

 その手紙を受け取ったアヴリエは、夜にこっそりと部屋でアンナの言葉を聞いたのだ。自身が儀式の最後の供物となること。それが月読の巫女の風習であること。
 
 あの日、私は覚悟をしたんだ。アヴリエはカップに注がれたコーヒーをじっと見つめた。コーヒーの黒味があの夜の闇に見えた。私は、あの日、生贄になるはずだった。

 村の未来のために、それが月読の、私の在り方のはずだった。アヴリエはあの日、逃げることもできた。アンナは逃げることを勧めた。

 生贄になるために生まれた命なんてこの世のどこにもない。アンナの手紙の最後はそう結ばれていた。しかし、できなかった。一人で一体どこに逃げることができるというのだろう。
 コルトマは? コルトマならきっと協力してくれるはずだ。しかし、懇意としているコルトマを自身のわがままのために巻き込むことはできなかった。ましてや、私は月読の巫女だ。
 私とともに行けば、コルトマは謀反の罪で捕まる可能性もあった。だからこそ、あの夜、コルトマが祭儀堂にやってきたことが嬉しかった。私の世界は閉ざされていたのだ。その窓を破ってあなたが光を持ってきた。

 だからこそ、アヴリエはコルトマの腕を心配していた。ちらりとコルトマの腕を見ると左腕には黒いシミがあり、彼の体を蝕んでいた。

 アンナは改めてカップにコーヒーを注いだ。アヴリエははっとしてアンナを見た。アンナはアヴリエの内面をすべて見透かしたかのように小さくうなずいた。まるで大丈夫だ、そう言っているように思えた。

「大体、話はわかるよ」
 アンナは椅子に深く腰掛けていった。彼女の表情は硬かった。ゆっくりと語り始めた。

 月読の儀式が行われたこと、そして、その夜にコルトマがアヴリエを祭儀堂から連れ出したこと。その際、コルトマが血に住む魔物に腕をやられたこと。想像ではあっても、見事に事の顛末を捉えていた。

 月読は、死者とつながるんだ。アンナは言った。アヴリエは黙った。死者とつながる。コルトマはその意味を問うた。男にはにわかにその意味を判別することができなかった。

 言葉の通りさ。アンナは続けた。

「月読の仕事は、月の力を受け、世の動静を探ること。月の力とは何か? それは簡単。死者の力さ。月とは死者の住む世界なんだよ。
 あまり知られていないかもしれないねえ。新月の夜に、死者の国への扉が開かれる。
 その間、魔力は月の引力に持っていかれてしまうのさ。だから、魔女はその間は魔法を使えなくなる。
 それを弱点とみて、多くの魔女が新月の夜に捕まった。大昔の話だけどね。私が、生まれるより少し前だね。旧時代と今では呼ばれている時分さ」

 アンナはコーヒーを一口飲んだ。その目は遠い過去を見ていた。

「月読は、その修練として、死者との対話を行うんだ。それは、誰にも知られていない。月読の修練で、みんなこの森にやって来る。見ただろう。森の手前にあった旧時代の遺構を。
 あそこでも多くの人が亡くなった。大昔の話だ。戦いは終わった。でも、まだ人の魂がそこには残っている。その魂と交流し、対話できることが彼女たちの力なんだ。
 死者の国の人々と対話をし、その力の完成こそが、あの豊穣の儀なのさ。もちろん、豊穣を祈るのは間違いがない。誰に何を祈るのか。そこが問題だった。18歳以上になった月読は、その肉体を捨て、死者として月に向かう。
 そして、新月の夜にもとの世界に帰ってくる。これが月読の在り方なんだよ。もちろん、自分が供物になるなんて村の人間は教えないけどね。私がわざわざ教えてあげたってのに。この子は逃げずにその身を捧げようってんだから。真面目というか、アホっていうか」
 
 アヴリエは何も言わなかった。コルトマは無言を貫くアヴリエの様子をじっと見ていた。彼女は自分が殺されることを知りながら、あの祭儀堂に残った。彼女は自分の体に刻まれた宿命のために、命を捧げようとしていたのか。

「さっき言いましたね。この腕のせいで獣たちが騒いでいるって」
 コルトナは自身の腕を見せた。憎しみで汚れた腕だ。黒いシミが自身の過ちの忘却を防ぐために残されているのだ。
 
 なるほど。そう言って彼女はしわくちゃな手でコルトマの腕を撫でた。アンナが撫でた部位は、不思議とすっと肌が元の白さを取り戻した。しかし、その瞬間黒く残ったシミが生気を取り戻したように動きだし、そのままコルトマの腕を包んだ。

 コルトマの腕に激痛が走る。思わず男は机の上に突っ伏した。アヴリエはすぐに駆け寄り背中をさすった。
「その血は憎しみで汚れているんだ」 
 アンナは言った。

「さっき、血の臭いと言ったが、正確に言えば、血ではない。血の奥に住む魔物の臭いだ。魔物が腕に寄生して、あなたの命を吸収していく。血の魔物は憎しみに反応するんだ。憎しみを食らって、その人の心を蝕んで、また別の人へと移る。その人の心を食らって、最後は廃人にして、そして、また別の宿主を探す。やっかいな魔物だよ」

「この魔物を払うことは?」
 アンナは溜息をついた。私にはできないね。そう言ってコーヒーを飲み干した。

「この魔物は、かなり強力だ。引きはがそうとしても、宿主と同時に死んでしまう場合もある。だが、引きはがさなければどちらにしても宿主は死んでしまう」

 コルトマは自分の腕を見た。人を手にかけた代償が自分の命だとするならば、ただ事実を受け入れるしかない。しかし、一抹のためらいがコルトマを捉えた。
 コルトマはふとアヴリエの顔を見た。アヴリエはアンナの言葉に恐怖を覚えた。助からないといういわば死の宣告は、まだ18歳の男女にとってとても重い宣告だった。

「でも、方法がないわけじゃないよ」
 アンナは立ち上がり、近くの棚の中から箱を取り出した。箱の中身はクッキーだった。おやつだよ、お食べ。そう言って二人にクッキーを渡した。
「本当ですか?」
 アヴリエはクッキーに目もくれずに言った。先ほどまで悲嘆に暮れていたアヴリエの表情がぱっと明るくなった。森に不意に光が注いだように。

「ええ、本当だよ。除魔法で、抜こうとすればかえって魔物の反発を招く。魔術医なら、もしかしたら、魔物を眠らしてから抜き出すこともできるかもしれない。もちろん、それでうまくいくかどうかはよくわからない。どんな力も完璧を保証するものではない。魔女にも、魔術医にも、できないことはある」

「大丈夫です。どんな小さな可能性でも、やってみるしかない」
 コルトマは言った。

 そうか。なるほど。なるほど。アンナは口癖を繰り返し、寝室へと消えた。すぐにリビングに戻ってきた。その手には羊皮紙とペンとインク壺が握られていた。よく見るとインク壺は空っぽだった。

「紹介状を書くよ。意味があるかはわからないけどね」
 アンナは空っぽのインク壺にペンを入れた。それでは書けない、とコルトマは思ったけれども、アヴリエは気にせずにすらすらとペンを走らせていく。そこで見た感じでは羊皮紙は、まだ何も書かれていないままだ。
 
 すべて書き終わった後に、アンナは紙を持ち上げ吐息を小さく吹きかけた。その瞬間、紙には文字がぱっと浮かび上がった。
 この文字はどんなことがあっても消えないよ。アンナはそう言って手紙をコルトマに渡した。

「さあさあ、暗い話はここまでだ。料理を作ろう。手伝ってくれよな。ほら、男は薪割りだよ。ババアに働かせないでくれ」
 アンナは今までの神妙な面持ちを崩し、

 森は暗かった。夕闇が迫ってきていた。にわかに木々の隙間から光が届き、自身の体を確認することができた。

 コルトマは自分の腕を見た。俺の腕、俺の命を蝕む魔物。そして、月読の意味。俺は何も知らなかった。俺は無知を片手に山を走っていたのだ。アヴリエが、大切な人が苦労をしている間、俺は何をしていた。

 狩りは俺の仕事だった。それはもちろん大切なことだ。しかし、狩りの中で、俺は獣との戦いに喜びを覚えていなかったか。去っていく命に対してなんの感謝も持っていなかったのではないか。多くの生命の死への無頓着な態度が、彼女が生贄にされなければならないとの強固な掟を生んだのではないか。

 そして、憎しみを好む魔物が、俺の憎しみを宿主に選んだ。

 やめよう。考えすぎるのは俺の悪い癖だ。コルトマは一心不乱に薪を割った。運動は男の心を幾許か晴れやかにした。
 アヴリエがやってきた。

「そろそろ、戻ってきていいって。火をつけるよって。アンナさんが」
 アヴリエは男の肌を見た。汗ばんだ筋肉はどこか官能的ですらあった。しかし、その左手は黒く淀み、そこにどんな生命力も望めないように思えた。

 アヴリエは先ほどのアンナの話もあり、男の悲しみを帯びた腕がとても愛おしいものに感ぜられた。手をさすり、その労を労う。この手が私を助けてくれたのだ。私は、この手のために何ができるだろう。

 コルトマはだまってその慈愛を受けた。じつを言うと、不安で男はすでにつぶれそうになっていった。命の終焉を知るのは誰だって怖いことだ。それが、内側に巣食う魔物によって為されるとしたら。男の心は震えていた。女はそれを見逃さなかった。

「ほれ、早くしないかい! 夕食の時間だよ!」
 アンナの声が聞こえた。二人は家の中に戻った。
 二人が家の中に戻ると、入口周辺の木は再び活力を取り戻して、糸のように変幻自在に伸び縮みして、再びその入口を塞いだ。

 その日、小さな宴会が催された。若い男女と、一人の老婆の宴会だ。 
 コルトマも、アヴリエもしばし明日を忘れて騒いだ。明日のことは明日考えればいい。
 今は、この瞬間を生きればいい。コルトマは、そう思った。

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