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令和の小学校の国語の教科書

私はその昔、とあるきっかけで自分の意見を述べるための日本語力がないことを痛感した。(それは以前の記事でご紹介したが)ヨーロッパ女子とのお茶会で彼女たちがある話題で議論を始めた時に、その中にうまく入れなかったというのがきっかけだった。私よりも英語力がないと思っていた少しご年配のスウェーデン女子がその議論に上手に参加していたからだ。文法とか語彙とか流暢さではない何か、根本的に自分の中に何かがない!と感じた出来事だった。そしてその時期に「言語技術教育」というものの存在を偶然知った。主に欧米諸国で行われている教育だ。今の中国でも。

先日、私は元生徒さんのお宅にお邪魔した。彼女は小学校の先生で、私は以前彼女に1年ほど、英語のレッスンをしていた。彼女が急に英語の授業を担当することになったからだ。そして彼女は私のために今の小学校5年生向けの国語の教科書を見せてくれた。私が彼女に伝えたことと似ているエッセイがあると。それが言葉の地図の領域に関する内容だった。私は彼女に単語帳で英語の語彙を記憶に叩き込むような方法の危険性を伝えた。語学はそんなに単純ではない。そんな方法で語学をやると日本語っぽい英語から出られなくなる。一つの言葉の使用領域の端っこを感じるような学びをしないといけない。それは経験しないと感じられないことかもしれないし、時間もかかる。だけれども、語学の楽しみの一つでもあると私は思っていて、それを彼女に伝えたかった。それを彼女がしっかりと覚えてくれて、そんなエッセイを読んで私を思い出してくれたこともとても嬉しかった。

そしてもっと嬉しく思ったことは、
令和の国語の教科書にはきちんと言語技術教育の内容があったことだ。

30代以上の大人世代の国語教育は漢字の読み書きと主に文章を「味わう」ことだったはずだ。言語技術教育がなされている多くの国では「読むこと」と「話すこと」の二冊に教科書が分かれているそうだ。令和の日本の国語の教科書は二冊に分かれてはいないものの、かなりの量を「話す」ことへの内容が盛り込まれていた。

私は彼女に40代以上の先生たちはその「話すこと」への内容をどう受け止めているのか聞いた。全ての先生の意見を聞いたわけではないが「これが国語、、」と戸惑いを見せている先生たちも多いそうだ。

言語技術教育が長年日本でなされてこなかったことは非常に残念だ。
ある意味で日本文化との完璧なまでの相性の良さでその必要性に誰もが気づかなかったのだと思うが、日本が本腰を入れて言語技術教育を始めた事実を見ることができて私は本当に安心した。令和に国語教育を受けた子どもたちがいずれ大人になったら、私たち大人世代が苦戦している日本人同士の日本語での交流も変わっていくだろうと希望が持てる。

私は大人世代の日本人の日本語の使い方が、もっと「噛み合った」ものになることを願っている。自分の意見や考えを自由に表現し、それをお互いに尊重しながら楽しめる関係性。それができれば日本は多方面においてもっと強くなると感じている。言葉が要らないほどの阿吽の呼吸、空気を読んで調和を保つのには限界がある。それがうまくいくのはごく限られた条件下だろうと思う。実際にはきっとこんな感じの機能不全状態のコミュニケーションも多いだろうと予測する。例えば、意見とも言えないような「意見っぽい言葉」が意見が言える立場の方からよく整理されないままに発せられる。それを受けて「空気を読む」圧力の下に疑問を質問化もできず、いろんな可能性を察して受け止める。

コミュニケーションが楽しいのは「言葉」をキャッチボールして、お互いに発見や展開があるときだと思う。その言葉が「?」の場合、そのキャッチボールは雲を掴むような実質のない感じにならないだろうか。

令和の国語の教科書は昭和平成に国語教育を受けた大人世代にこそ、
必要なのかもしれないと思っている。



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