キサーゴータミーの説話

仏陀のエピソードにキサーゴータミーの説話がある。

幼いわが子の死のために悲嘆に暮れていたキサーゴータミーは、ブッダ(目覚めた人)に縋り「どうかこの子を生き返らせてください」と、胸に抱いた死児をブッダの前に差し出した。

「よろしい、この子が命を取り戻す方法がひとつだけあります」ブッダはそのように言う。この一言に、母の嗚咽はしばし喉元から去ったに違いない。賢者の口から発せられる救いの言葉を取りこぼさないように。「ケシの粒からこの子を生き返らせる薬を調合しましょう。但し、そのケシには条件がひとつだけある。今から家々を訪ねて回りなさい。そして、死人の出たことのない家を見つけなさい。そこでケシを貰ってくるのです。私がそれを調合して薬にしてあげましょう」

キサーゴータミーはブッダの言葉を聞くとやにわに村へと駆け出した。手当たり次第に戸という戸を叩いて家の者を呼び出しては「人の亡くなったことはありますか」と尋ねた。しかし、そんな家はただの一件も見つけることができない。疲れ果てて「人が死んだことのない家なんてあるものだろうか」と呟いたとき、腕にかかる重みの者が、すべての家に影を落としたように感じられた。「人が死なない家なんて」ないのだという覚りが彼女に充満していく。するとそれまで生者ばかりを見ていた目が、そこここにある死の影を見つけるのだった。

ざっとこんな話だ。

この説話に倣ったエピソードが挿入される『禅 ZEN』という映画がある。ひとりの娼婦がキサーゴータミーと同様、死んだわが子を抱いて道元の前に救いを乞うというエピソードがそれだ。それはまったく上述の説話に沿って話が展開する。ただ一点だけ相違がある。映画のほうでは、「人が死なない家なんてないんだ」という気付きは、娼婦本人から起ってこないという一点である。彼女は道元の「インチキ」に振り回され、不平の言葉を叫びながらインチキ坊主のいる寺に戻ってくる。寺からは道元の弟子たちが彼女と対面し、彼らの口によって諭しの言葉が彼女に注がれるのである。「道元様は人が死なない家はないということを知ってほしくてあなたにそういったのです」と。

この説話において重要なのはその気づきの内容ではないと私は思っている。それはここに見た説話と映画の相違点、この一点である。

釈迦は教えを垂れていない。キサーゴータミーが勝手に悟るのである。それを手引きしたのは確かに釈迦だが、それによってこう思いなさいという教えの形はとらない。彼女は自分で気づくのである。

それに対し映画のほうでは教えを垂れるのである。それは彼女の境遇において適当でない教えだったから彼女には気づきとしてこなかったのではないか。そう思う。


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