高知県で発生したペスト
本文
1 防疫官を現地に派遣
大正11年(1922)10月、高知県は感染症調査のため防疫官を松尾に派遣した。10月に入り、ペストとおぼしき病者が続出したのである。それ以前にも松尾では7月に5名、9月に2名の疑わしい病者が現れ、全員死亡していた。現地に到着した防疫官は夜を徹して調査し、ペストの可能性が濃厚であることを確認、決定した。ただちに内務省、各府県および県下警察署長に通牒を発した。——その後の調査で、真正ペストと決定する。
ペストとは、ネズミを宿主とするペスト菌によって発症する感染症である。発熱、頭痛、悪寒、倦怠感といった症状を呈す。加えて、壊死や紫斑を伴い、肌が黒変することから黒死病とも呼ばれた。死亡率は30~80%と高く、肺にペスト菌が侵入した患者は飛沫感染をひき起こすため、予防には隔離措置が必要となる。
日本では明治32年(1899)の流行以後、大正15年まで大小の流行があった。大正11年は松尾と同時期に大阪南区で流行している。
2 対策
中村署では署長以下数十名を動員し、松尾のネズミ、ノミのせん滅作戦を開始した。石垣や溝、家の風穴など隙間という隙間を塞いでネズミの通り道を断った。患者には消毒を施し、汚染家屋への交通は遮断した。患者は松尾と伊佐に設置した隔離病舎に収容した。病舎はもっぱら隔離を目的とする施設だった。
『大阪毎日』は松尾住民も感染予防に協力している様子を報じている。
松尾は陸海とも外部との交通が遮断された。当然、製造したカツオ節も流通を禁じられた。生産と交易活動の一切が停止し、食糧も備蓄できない状況のなか、県庁特派の船が住民に支給する物資だけが、ほとんど唯一の希望だった。
隣地区の足摺岬は人の1人、ネズミの1匹も侵入させまいと、境界に柵をめぐらし、通路には番人が立って往来を閉ざした。住民はペストとともに収容措置にも怯え、家にいると疑いがかけられるからと、体調をおしても畑に出るよう言い合った。隔離病舎に入れば生きては出られないと言われていたのである。
3 疑惑
田村桓夫『問い語り』には、著者の母が、ペスト騒動のうちに姉を失ったことが記されている。
ペストが隣地区で流行しているとき、彼女は風邪にかかった。その症状からペストの疑いがかけられ、警察官によって隔離病舎に収容されてしまう。病舎で過ごすうち、彼女はすっかり自然快癒した。しかし警察としては、ペスト患者といっしょに一度収容した者を軽率に開放するわけにはいかなかった。かといって、収容し続ければ病舎を焼却して終わりにできない。そうなると、いつまで経っても看守係の任も解けない。困った末、食事に毒を盛って彼女を毒殺した……のではないか、と著者の母は推測している。
著者はこのペスト騒動について再び調査して『最後のペスト大流行』を今年、電子書籍で出版した。聞き取りによって、当時の足摺岬での様子を詳細に伝えている。
4 収束までの経過
対策が功を奏したか、ペストは地区外に伝染することなく、その年の末には収束することとなった。とはいえ、10月以降、36人の松尾住民が病臥に伏し、うち生還したのは僅かに7人だった(死亡率80.6%)。死者は火葬されたが、地区には火葬場はなく、遺体は海蝕洞に運んで燃やされた。
医療的支援もなく、経済活動も停止し、隔離病舎に入れば生きて出られないと噂された。逃げもできず、明日は我が身かと戦々恐々の思いであったろう。ネズミ駆除と消毒の持久戦に一縷の望みを託して、いつ見えるとも知れない光芒が射す日を待ちつづける外なかった。こうしたなか一部住民が警部補派出所を襲撃するという噂が流れたのも、この鬱屈した事態を反映しているのだろう。
5 慰霊祭の開催
騒動から3年後、合同慰霊祭が開催され、竹村嘉一郎(当時松尾小学校訓導)が作詞した哀悼歌が参加者一同で唱歌された。
「ペスト」の語こそないが、経緯をしれば悲痛な心境を伴って当時の情景が静かに浮かんでくる。口に残された記念碑である。
6 むすび
『最後のペスト大流行』を今年著した田村桓夫は足摺岬の出身であるが、その中でペストのことは当時を知る人も痛ましい記憶として口をつぐまれた。子の世代である著者の同窓生でも、そもそもペストが流行したことを知らないということも多く、ただ忘れ去られていく一方の現状に危惧を抱いている。
なお、田村桓夫『問い語り』『最後のペスト大流行』及び山本等『ふるさと足摺岬』では松尾ペスト流行年を大正9年としているが、その他の参考文献では大正11年とあって9年にペスト流行を記録するものはなかった。ここでは同一の事例として、当時の新聞記事が残る大正11年をその年とした。
文献からのメモ
松尾ペスト禍の経緯
大正11年10月 松尾にてペストが発生した。
『幡多医師会史』
県より防疫官、技師等が現地出張
ネズミの死骸19匹 確認
10月28日 疑似ペストと決定
ネズミ族・ノミ撲滅 中村署より署長含む数十名出動
侵入防止:石垣にセメント
逃散防止:亜鉛板、糸網張り。溝等に金網。風穴を塞ぐ。
消毒措置:患者には大々的消毒
交通遮断:患家に対し。
隔離措置:患者及び家族並びに保菌可能性ある者。隔離病舎建設:松尾、伊佐。
のちに真正ペストと決定。松尾部落交通遮断。
交通遮断は伝播抑止の面で功を奏し、松尾以外に飛散することはなかった。
同年内に収束。患者36人内死亡29人(死亡率80.6%)を出した。
死体処理には海蝕洞穴を利用、火葬に付した。洞穴には荼毘に黒化した岩肌や鉄筋の一部が残るという。
『幡多医師会史』にこのことが残る。土陽新聞から引用がある。
田村桓夫による調査
また、足摺岬出身の田村桓夫は母の口述を聞き書きした『問い語り』に、母の姉はペスト騒動に紛れて毒殺されたのではないか、という証言を残している。著者はこのことを新たに書いた『最後のペスト大流行』を今年著した。
(但し、著者によればペスト流行は大正9年とある。次項に示す書籍には大正9年にペストは見当たらない。前項も大正11年のこと。ほかに大正9年の松尾ペストを記すのは、山本等による郷土史『ふるさと足摺岬』のみであり、『最後のペスト大流行』に引用されている。大正9年といえば、四国の西南部に甚大な被害を及ぼした大水害のあった年でもあり、記憶違いといい得るか疑問はあるが、ここでは同一の事例としておく)
『大正ニュース事典』
当騒動の報道記事が2つ記載されている。以下抜粋。なお、記事相互に食い違いがあるが原文ママとした。
◦「高知県でも7人死亡」(大11.10.23時事)
ペストと判明 高知県幡多郡清松村
10月22日、疑似ペストと決定(カビ菌培養による)、発表。
7月に5名、9月に2名の患者あり、全員死亡している。
10月2日、再び患者続出。
ペストに類似の為、高知県警察部では防疫官を特派
診察とサンプル検鏡によってペストと判明。
目下、患者3名、注意患者2名の5名あり。
10月に入り既に5名死亡。
松尾部落=人口:1,000、戸数:230
「病気の系統は満洲の大豆輸入から来たものらしく、最初の患者は豆腐屋である点から見ても明らかであると」
(高知22日電話)
◦「高知県で一集落ほとんど全滅、必死の防疫」(大11.11.30 大阪毎日)
台所巡視隊を組織 高知県幡多郡清松村字松尾
7月25日、真正ペスト患者1名発生。
9月20日までに6名の患者が発生。
一時鎮静化、収束かと思われた。
10月18日~、日々1、2名ずつ新患者を続出
10月21日時点で患者43名に上る。
松尾部落=数十戸を数える小漁村。
人口率では時期を同じくする大阪のペストの数十倍の勢力
土佐南岸の唯一の船着場でありながら、ペスト以後定期巡航船の寄港もない。
日用品の欠乏。県庁が特派する海上警邏船の物資救援で辛うじて生活を繋いでいる。
村民、協力して日夜自業を休止して防疫に努める。
収穫時期の畑の作物もネズミを肥やさないよう全て引き抜く。
皆足袋を穿き、着衣は洩れなく熱気消毒、1回/週の予防注射を励行
警官、吏員、在郷軍人、青年団etc.の協同で捕鼠隊、健康診断隊、台所巡視隊組織
台所巡視隊=各戸の台所を巡回、鼠餌を断つため確認指導した。
(高知来電)
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