遺体と位牌

以前サザエさん住宅に関する考察をしたなかに、位牌について加地伸行の紹介した説を頼りに書いた部分がある。

いま、筒井功『「青」の民俗学』を読んでいて、死者が行くという山に遺体を負って参るという供養風習を知った。

読んでいて、そこに位牌を見出す私がいた。

上述した記事において、位牌とは招魂復魄儀礼の魄=肉体を代用するものとして登場した。位牌とは魄の喩である。これに向かって供養するとき、死者はこれに居つく。居つくことができるのは死者を供養のため儀式する者の存するため。

今回知ったのは、死者が行くという山へ、魂だけが行くのではなく、血縁の濃い者の手によってその死体も運ばれるのである。

何れの慣習も、そこに血縁者の力に頼って死後が決定されている。たしかに遺体と位牌には通じるもののあるように思われる。そしてこの慣習によって、慣習から外れること、すなわち遺体や位牌を弔う者のない死者の存在に不憫や不幸といった価値づけが生じると解することができる。この場合、不憫や不幸な状況が予めあるのではなく、また幸福な死者さえ予めあるのではなく、慣習が最初に成立し、成立することでそうでない者への価値づけが生じ、しかる後に供養された幸福な死者が生まれるという過程を辿るように思われる。慣習とはひとつの極を出現させる装置なのかもなと思う。

あと、遺体と位牌の共通するところから、位牌がそうであるように遺体も儀式の道具として捉えられてくる。遺体に幸も不幸もないが、そう捉えてみると、生存する者の死生観のためにおもちゃにされて(というと言いすぎかもしれないが)動かされる遺体に対し、不憫な気もしてくる。

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