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「私は太陽である」と書いたとたん、

とあるツイキャスバタイユの「太陽肛門」(酒井健訳、景文館書店2018)が朗読されていた。私はこの著作の怒涛のように展開し、蒸気機関と性交のパロディとしてあらゆるものを類化的に繋ぎ合わせ、自己のなかにぐんぐん呑み込んで(解釈して)圧倒する、あるいは読者を呆気にとらせる文章がとても好きなのだが、その内容については深めることができずにいた。今回視聴したツイキャスでは、そこに少し「アリアドネの糸」が示される体験があった。

「太陽肛門」には最初のほうに次のような一文がある。

言葉を結ぶ繫辞は肉体の交接に劣らずに欲情をかきたてる。だから「私は太陽である」と書いたとたん、私は完全な勃起に見舞われる。

もちろん、「私」はヒトであり「太陽」であるはずはないのだが、こう書きつけることで、「私は太陽である」という思念は明言という形をとることになる。書きつける言葉は半ば他者として作用し、すでに私から棄損されたものとして外部化されることになる。

外部化とは本来それを自己から切り離し、観察できる状態にする心理的な技法のことだが、ここで思念は棄損され、外部化されるとともに、自らに向かってそれが返ってくるのだ。

録音、録画された自分を見るときの著しい羞恥心が、それが自己でありながら現在の自分から切り離され修正することができない上に、他人によって好きなように公開できるという事態に由来していると言えるなら、この「私は太陽である」と書きつけることにも通じている。

そして「私は太陽である」のもつ内容が、「私」を「太陽」に接合する。このおよそ現実的でない表明はしかし、筆記者には虚偽がないはずである。そして、信じがたい、太陽であることを思念の外に出したことによって、それは自己に回帰して啓示するのである。自己が妄想として思念に浮かべていたに過ぎないことが、絶対的な威力をもった他者の言葉として自己を規定する。そこに否認や抵抗は挟むことはできない。「私」はあの「太陽」へと変貌し、「太陽」へと全身が逆立ちはじめる。つまり「完全な勃起」に至るのだ。

吉増剛造の「黄金のザイルは朝霧に……」という詩なども思い出す。手元に詩集がないので記憶で書くが「人は自慰だというだろうが、私にとっては唯一の性交だ」というような詩行を思い出す。吉増の初期詩篇にはバタイユを感じる。

思春期までの記憶をたどると、こうしたことは日常的に起きていたと思われる。少年期には庭に立ち、足元のアリやダンゴムシを見下ろしながら自分の巨大さに喪神するようであったし、その高所さに恐怖を覚えることもできた。天体の運行に地球の自転を感じることもできた。草木が我慢強い時間をかけて欲望の経路を辿っている様に同化してエロティックな圧迫を覚えたりもした。

こうしたことは通常の恋愛のなかにもあり、相手を求めるのはその人へと自らを同化、融合させたい願望として現れた。「きみに肉体があるとは不思議だ」(清岡卓行「石膏」)と思われたし、「ここはあなたの生れたふるさと、/この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。」(高村光太郎「樹下の二人」)とも通じていた。それは融合を求めつつ不断に挫折することでもあるが。

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