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とうてつ「走る名」を読む

『現代詩手帖』2021.06号の投稿欄に掲載のとうてつ「走る名」。

「名」というものが詩のなかでリンクを張っている。第1行目の「ハレルヤ」はタイトルと音韻を重ねながらくる。そして「名前なんて知らない」という馬の名ででもあるように読んでしまう。それを、知らないということかもしれない。

読んでいくと卒業式の場面となる。たぶんずっと卒業式の場面だったのだろう。そして、主体はそこで居心地の悪い思いをしている。

わたしの席はどこですかと
前を向きながら問えば
一番後方の席を
もう名前を忘れてしまった先生に指されてしまって
ごめんなって
馬に謝る

「馬」は「席」と同じ位置にいる。「名前を忘れてしまった」のは「三ヶ月間入院していた」からで、「だからもう一年/お前の背に乗らなければならない」馬がいる。馬の名はあるいは「ハレルヤ」かもしれなかったが「わたしの記憶の中は百名ビーチの匂いでいっぱいで/その馬は静かに新しく見えた」。

卒業生はその席を立って、名づけ終え、そしてもう座らない席を立つ。その人たちに向けて手向けられた「知らない花」は、「もう一年」馬に乗る「わたし」を通り過ぎていくように走り出す。

卒業生は生者が葬儀場を立ち去るように動いていて、すると「わたし」は花を無闇に手向けられた死者のように動けないことを感じている。

なぜあなたは本物のソメイヨシノをわたしに一度も見せずに
死ななければならなかったのか

と、花の名を飾って、しかしそれは「一度も見」ることがなかった者として「ここでは知らない花ばかり咲く」。

この詩の中では沖縄の、百名ビーチと奥武島と大城さん、それからハレルヤとベツレヘムだけが名前のように響き、「ソメイヨシノ」も登場してさっと消えてしまう名であった。おぼつかない現実感のなかで卒業生たちへと「走る名」は、「一番後方の席」の「わたし」には遠い。

先生
幸福も絶望もただでは済まない
そんなことはわかっている
わたしの乗っている
馬の名前はなんですか

その問い詰めるような視線は怨むようでも怯えるようでもある。

ハレルヤ
馬の名前なんて知らない

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