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行商から

 高知の民俗写真家田辺寿男に油売りをモデルにとった一葉がある。どこに油があるのか分からない。そもそも売っているのは油なのか、芸をブってるその行商人の様はむしろ漂泊芸能民とでもいえばいいようなものである。

 そこでネット検索から簡単な解説を求めてみると、化粧用(髪につける)あるいは灯火用の油を売っている者が油売りであったらしい。
 彼らは客に向け油を小分けにする時間を客との世間話に使った。油は粘性のある液体であり、分けるには一定の時間を最低限必要とするためだ。いま、無駄話することを「油を売る」というのは、これに由来するという。
 行商という生業には芸がつきものなのかもしれない。私は父のいとこにあたるおじさんに、私からは曾祖母にあたるオチヨさんが行商をしていたことを聞いたことがある。話によると彼女は行ったさきで売れ行きが芳しくないときにはその村の若者を使って客寄せに踊らせたともいう。別の話では盆踊りも好きでよく踊っていたともいうし、根っからの芸好きだったのかもしれない。

 ともかく行商、露天商、テキ屋の類には芸がつきものと言って違和感がない。以前動画でよくみかけたこちらの七味売りも商品を売ってるのか芸を売っているのか、にわかにはどちらとも言い切れない気がしてくる。

 どちらとも言い切れないとは、対価の支払いが品物への対価なのか芸へのそれかという言い切れなさである。客の心算り次第ということになろうか、芸への対価ならそれでよかろう、これが品物への対価としたら、品物はそれなりの品質が求められることになる。ここで期待値を下回ったり、まして二束三文の漬物石にもならないものを掴まされたとなったら詐欺にもなろう。商売と詐術と芸がここで交差する可能性がひらかれるのではないか。詐欺師は話術で商品に虚構の価値を付与する。普通こういうのは「無知につけこんで」とか「言葉巧みに相手を騙して」とかと揶揄されるが、彼らを芸能民の一傍流と捉えてもいいのかも知れない。以前はテレフォンショッピングが行商の現代的形態かと思ったこともある。
 バナナ売りやガマの油売りや刃物売りといった叩き売りとか啖呵売とかいう類はやはり半ばはその芸を売っているのである。

 芸とは形の残らない歓楽の時間を売る商売といえるのかもしれない。しかし現代は芸は芸、物品なら物品と判然と分かれたもので、物品があればそっちに代金がかかるものである。
 もちろん詐欺を肯定するのではないが、物品を買ったと思うから不満が生まれるということもあるような気がする。「お前がいうなら騙されよう」という気概に客は客で伴う時間が、行商もふくめたしゃべくり芸のマツリ的空間ではないか。たしかyoutuberがテキ屋のくじを買い占めてアタリのないのを暴露した例があったと思うが、あれも野暮といえば野暮な芸である。コリオリの力だと赤道の北と南で盥の水の回転が変わる芸に金を払って楽しめるなら、そこには虚構にも巨大な地球を生身に落とすこともできるだろう。どのみち科学的に正しい理解もひとつの虚構にすぎないのだし。「騙されてやろう」という投げ銭する気概がそこに生じるかどうかだ。

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