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『ドライブ・マイ・カー』 にコロサレル!

いよいよ2022年のアカデミー賞が近づいてきました!
ここで作品賞監督賞脚色賞国際長編映画賞の4部門にノミネートされた今作品。日本映画が作品賞にノミネートされるのは初。
実は個人的に凄いなーと思ったのがアカデミー賞の前哨戦の一つである全米映画批評家協会賞(NSFCA)で作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞の4部門を受賞した事でした。
特に非英語作品である今作で西島秀俊が主演男優賞を受賞したインパクトは非常に大きかったです。過去20年を見ても英語以外で主演男優賞を受賞しているのは既にハリウッド常連だったアントニオ・バンデラスAntonioBanderas(2019年『ペイン・アンド・グローリー』)ぐらい。
アカデミー賞より攻めた選出をすると言われているNSFCAとはいえ、かなり異例の受賞だったと思います。

短編集『偶然と想像』でベルリンを沸かせた濱口竜介。

そんな彼が今度はカンヌで、アメリカで、世界中で映画好きを熱狂させる『ドライブ・マイ・カー』。アカデミー賞が近づいているタイミングでたくさんの論評や解説が世に出回っているので、今回はテクニカルな事よりも自分自身が感じた事を優先して書きたいと思います。

また濱口監督の演出術に関しては本人が書いた名著がありますので、そちらを読めば少しは濱口竜介の頭の中が見えてくるはずです。

※「村上春樹の原作」以降大きくネタバレを含みますのでご注意ください。


あらすじ。

舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したまま他界してしまう。2年後、喪失感を抱えながら生きていた彼は、演劇祭で演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさきと過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされていく。
ー映画.comより一部抜粋


村上春樹の原作。

本作品には原作が存在します。
2014年に発売された村上春樹の短編集『女のいない男たち』、その中の一編が『ドライブ・マイ・カー』。
そして同じ短編集の『シェエラザード』と『木野』もモチーフにしているとインタビューで濱口監督は話していました。
しかし同じ短編集の『独立器官』の中の「僕らが死んだ人に対してできることといえば〜」のセリフはそのまま劇中にも出てくるし、『女のいない男たち』の“消しゴムを割る女”の話もエピソード的に挿入されます。
つまりこの『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の『女のいない男たち』の短編たちをミキサーに詰めて美味しい所だけを抽出して作られた映画です。
(この短編集の中で『イエスタディ』だけは私の観ていた限りではそのミキサーの中には入れられていませんでした。素晴らしい短編ではありますが、この物語だけ少し味わいが違いすぎたためかもしれません。)


言葉よりももっとその先の可能性。

濱口竜介という映画監督は言葉にあまり重きを置いていないように思います。
いや言葉の重要性を知っているからこそ、そこから抜け出す術を探しているという解釈の方が近いのかもしれません。
濱口作品で散見される役者の棒読みセリフ。
今回の劇中でそのヒントが少し出てきます。
劇中劇アントン・チェーホフAntonChekhov 『ワーニャ伯父さん』の本読みの中で演出家・家福(西島秀俊)は「セリフは棒読みで感情を込めないで」と何度も役者に注意をします。
それによって役者は自分自身の作為的な要素がどんどん削ぎ落とされているように見えます。
おそらく濱口さんは撮影現場でも同じ事を起こしているのでしょう。
それは徹底的に脚本を、言葉を信頼してるからこそできる事なのだと感じます。
言葉に感情や身体が引っ張られていく感覚。
だからこそ今回“手話”(韓国手話)という形で身体による言語を取り入れた事にとても驚きました。
言葉による可能性を痛いほど知っているからこそ、さらにその先を見つめているのだと感じました。

「我々のからだは時に言葉以上に大いに語る。」

言葉はより正確にスピーディーに相手との合意形成を得る事ができるとても便利なツールであると、監督本人が話しています。
しかし今の濱口竜介が見ている風景は確実にもっともっとその先にあると今作を観て確信しました。

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高槻耕史の正体。

今作品でもっとも異質な存在が岡田将生演じる高槻耕史でした。
彼は一躍有名俳優になりながらプライベートのスキャンダルで失落し、再起をかけて家福の演出する『ワーニャ叔父さん』のオーディションに応募してくる役柄である。
何が異質かというと棒読みの多い登場人物の中で、彼は1人だけバッキバキに演技をしている。劇中劇の中でも、それ以外でも。
濱口竜介の演出術では、本読みは感情を入れずに読んでもらうが、本番は本人に任せる。つまり本番は感情を入れても良いという事になっているようです。
しかし周りがここまで感情を入れていない(少なくとも劇中劇以外では)のに、1人だけバッキバキに演技している事には違和感しかありません。
いや、違和感というより作為的なものを感じてしまいます。

そもそも主演の西島秀俊を除くと普通にテレビだけを観ていたら、なかなか観ることが難しい役者の方ばかりです。
その中で1人だけ世間的に有名な岡田将生というキャスティングにも作為を感じてしまいます。
彼が一度は転落して再起をかける役者という役である事もです。

濱口竜介の作品群で共通して描かれているテーマは“生と死”。
私は前出の棒読みセリフも実は“生と死のボーダーを曖昧にするための装置”だと思っています。(これに関して監督本人が言っているわけではありません。)
全体を通して非常にフワフワとした浮遊感の中で、テンポや疾走感みたいなものは皆無。
足元を映すカットや道や川などを横断するカット。
その全てが境目を曖昧にするための装置。

中盤くらいで高槻がしつこく写真撮影する男に制裁を加えるために道路を渡るシーンがありますが、後日この時に男を殴り殺している事が判明して彼は捕まってしまいます。
結果、彼の役者としての人生は死にます。
そもそも車の後部座席で音(霧島れいか)の話をしていた時のあの不気味な表情。
「僕は自分が場違いに感じています。」というセリフ。
他とは一線を画すバッキバキの演技。
思い起こすと高槻には常に死の匂いがまとわりついていました。

そして皮肉な事にスランプに陥ってもうワーニャ役は演じられないと感じていた家福は、高槻の死を越えて復活を遂げるのです。

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分断と共存と演劇。

世界中が分断に苦しみ、なんとか共存の道を探ろとしている中でこの物語が受け入れられるのは必然のように思えます。
家福の演劇では言語も国籍も民族も年齢も性別も関係ありません。
言葉が喋れないことすらもたいした問題ではありません。そもそも私たちは自分が使える言語以外の言語を聞いても内容を理解できないはずです。
全ての言語が理解できない以上、言語には確実に限界があります。
私はこの物語はここに新しいコミュニケーションの形を提案しているのだと強く感じています。
思い返すと家福をはじめこの物語の登場人物はみなコミュニケーションが下手な人物ばかりでした。
しかし演劇の中では不思議とコミュニケーションが取れる。
いや取れるように“なった”という方が正確かもしれません。
初めは難しくても徹底的に感情を排していく事によって、その時々で自然と湧き上がる準備しない感情は、あらゆる障壁を超えて互いの心に触れる事ができると、この映画は力強く証明してみせたのです。

今回のアカデミー賞にノミネートされている『パワー・オブ・ザ・ドッグ』『ウエスト・サイド・ストーリー』『ベルファスト』も分断の物語です。
映画は時代を映す鏡。
そんな分断の時代に一筋の光を見せてくれたこの『ドライブ・マイ・カー』という作品に私は最大の敬意を払いたい。

最後に濱口竜介の著作からこの言葉を。

「学生時代に多くの時間を費やした映画や音楽の経験が撮影現場の実務においては一切、役に立たないことに気づかずにはいられなかった。〜中略〜それから時間を重ね、今はどちらかと言えば全く逆のこと確信している。映画や音楽は人が生きることを助ける。」



映画にコロサレル!


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