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道化の疾走――震災以後の演劇について/短距離男道ミサイル『母さん、たぶん俺ら、人間失格だわ』

私たちは精神に、冷たい汗をかいている。
私たちは魂に、垂らしているのだ。冷たい汗を。
そして東日本の時計はものみな、一分だけ遅れたままだ。
――和合亮一「詩の礫10」

 ナンデモアリは最悪だ。貧しい若者のモラトリアム演劇を、僕があまり好ましいと思わないのはそのためだ。それは結局のところ、何も持たない貧しい若者である「僕ら」にとってはルールから逸脱する「ナンデモアリ」が至上の価値なんだとする転倒した「甘え」を肯定する。ナンデモアリというわけにはいかない〈他者〉から逃避する安全な幻想(引きこもり)に過ぎないのである。しかし、厄介なことに若手の演劇人は事実として金がなかったり、社会に居場所を持てない屈折した感情を鬱積させていたりするので、ただ真摯に演劇へと向き合おうとすると自然にそうなってしまう傾向がある。日本の演劇創作を取り巻く環境が構造的にそれを強いるのだ。
 こうしたモラトリアム演劇は、同じように自らの生きる方向を見いだせない若者たちの共感を呼ぶので、まだ一定規模のマーケットを維持できる(ようである)。そのため、モラトリアム演劇が採用する価値基準は売れるか売れないか(商品価値)となり、商品の交換価値に還元されない剰余(芸術性!)を記述しようとする「演劇批評」にとっては、言説化するに値しない作品と断じられることになるだろう。
 2018年4月に北千住BUoYで上演された短距離男道ミサイルの作品は、まさにそうした「モラトリアム演劇」の特徴を兼ね備えていた。だから言説化に値しないと断じるのは容易い。しかし、また別の見方を採用するのであれば、彼らはモラトリアム演劇を支える消費環境の収奪構造それ自体を露呈させ、それを商品と断じてしまう態度そのものを問題にしていると言うことができる。
 なぜか。短距離男道ミサイルが「震災以後の演劇」を愚直に実践してきた劇団でもあるからだ。2011年3月11日、東日本大震災が起こり、さらには「想定外」の巨大な津波が福島第一原発事故の引き金となった。その1ヶ月後、仙台の演劇人は「C.T.T.sendai特別支援会」を開催。そこで『CAN魂』を発表したことがきっかけとなって短距離男道ミサイルは結成された。WEBページの劇団紹介に「震災直後、僕たち若手演劇人は、なにもできなかった」とあるように、彼らの活動は、震災という未曾有の危機に対する直接的なリアクションとして始まった。
 その後、2012年の『佐川、あれはイキ過ぎた男』で、彼らは京都・名古屋・仙台と初の三県ツアーを敢行し、精力的に全国ツアーを重ねていく。2017年に上演された『母さん、たぶん俺ら、人間失格だわ~キャンピングカーで巡る真冬の東北二十都市挨拶周りツアー♨いいか、お前ら事故るなよ、ぜったい事故るなよ!!編~』では東北二十都市ツアーに打って出る。その類まれな馬力と行動力は、目を見張るものがあるだろう。この作品は「CoRich舞台芸術まつり!2017春」グランプリを獲得し、2018年4月にCoRichからの広報協力を得て北千住BUoYにて再演された。私が観劇したのもこの再演である。
 CoRichに掲載されたインタビューによれば、劇団メンバーが震災から受けた影響は、その後の進路が変わるほどのインパクトがあった。被災したときには大学一年生だった俳優の本田椋は、卒業後に東京か関西の大都市圏で演劇活動を続けようとしていたが、震災をきっかけに仙台でこそ作れるものがあると考えて、短距離男道ミサイルに参加した。劇作家・演出家の澤野正樹が演出家としてのキャリアをスタートさせたのも、まさに震災が直接的な要因となった。
 つまり、彼らが「震災以後の演劇」を実践しているというのは、比喩ではない。アーティストであれば社会問題に応接せねばならないといった類の応答責任を意味しているのでもない。2011年3月11日にたまたま被災地にいて、たまたま演劇に関わりを持っていた事実を引き受けようとする身振りにおいて、それは「震災以後」なのである。

一方で、冒頭で述べたように本作はナンデモアリを価値とするモラトリアム演劇として受容される可能性を持っている。本作の原作である『人間失格』(1948年)が、道化の〈実存〉をめぐる小説であったことに注目しよう。太宰のなかでも最もよく知られたこの青春小説では、子供の頃から「人間」が理解できず異端であることをなによりも恐れる主人公・葉蔵が「人間」らしく振る舞おうと奮闘しながら、次第に酒とモルヒネに溺れて脳病院に入れられる様が描かれる。そのメインモチーフとなるのが「道化」である。葉蔵は、他人が幸福だと感じること、人が当たり前に共有している常識を自然に体得できない。だから、人間社会に参入するためには人間の「真似」をする「道化」になるほかない。
 短距離男道ミサイルは、この「人間らしさ」を演じる「道化」の物語を換骨奪胎して、俳優として演技する自分たちがいかに「道化」であるかを伝える〈ドキュメント〉に仕立て上げた。道化の〈実存〉――なぜか存在してしまっている底の抜けた〈私〉――を問う演劇。それが本作なのだ。しかし、何ものにもなれない道化とは、裏を返せば、何ものにでもなれる道化にほかならない。言い換えるなら、社会の規則からなぜか逸脱してしまっている〈道化―実存〉は、規則を破ることを規則とする〈道化―モラトリアム〉のナンデモアリに横滑りする可能性をいつもその内に孕んでいる。短距離男道ミサイルの舞台は、この二面性をちょうど綱渡りしているように見えるわけだが、本稿ではとかく曖昧になりがちな両者のあいだに明確な線を引くことで、本作のポテンシャルがどこにあるのかを明晰に取り出してみたい。
 だが、ここではまず換骨奪胎とはどういうことかを具体的に見ていこう。例えば、原作の冒頭で語り手の「私」は葉蔵の写った三枚の写真を見て、こんなに気味が悪い不思議な顔は見たことがなかったと繰り返す。その「私」を彼らは距離男道ミサイルの「観客」に見立てる。観客の視点から自分たちがどんな「くだらない」演劇をやってきたのかを語る。基本的にふんどしまたはブリーフ一枚の半裸姿で舞台に立つ自分たちは「裸」で「汗臭い」以外の印象が残らない不思議な劇団だったのだと。
 その言葉通り、舞台上に立つ三人の男たちは着ていた服を一瞬で脱ぎ捨て、ブリーフ姿で太宰の小説のタイトルを叫びながら、激しいダンスを踊り始める。一糸乱れぬ規律正しい動きは非常に練度の高い迫力を感じることは感じるが、しかし、なんにせよブリーフである。どうにもバカバカしいパフォーマンスを前にして、いつの間にか観客は説明不能なパッションとエモーションの渦に巻き込まれていく。そして、原作にある第一から第三の手記までの流れを踏襲したレビュー形式の(つまり「ナンデモアリ」の)バラエティショーが繰り広げられるのだ。
 「恥の多い生涯を送ってきました」と、プライベートな俳優の暴露話が展開されたと思えば、サイコロの出目に割り当てられたテーマを話すトーク番組(もちろん「ごきげんよう」のパロディ)がはじまり、葉蔵の「道化」を見抜いてしまう竹一の青膨れた不気味な顔がプロジェクションされたかと思うと、竹一を司会に立てた観客参加型の「絵当て」ゲームが開かれる。その後も、人形浄瑠璃を模したシーンや「アントニムゲーム」(乳首に洗濯ばさみを挟んでぐるぐるまわる)、パンクロック風のライブと様々な趣向でもって『人間失格』がショーアップされていく。
 まさに道化の疾走である。彼らは、そうしたショーやゲームのパフォーマンスを凄まじい速度で駆け抜けることで、いちいち自分たちが何ものであるかを確証するしかない道化なのだ。
 けれども、それこそ本稿が「モラトリアム演劇」と呼んでいるものにほかならない。様々な上演形式のサンプリングから太宰治のテクストをシミュラークル(情報)として読み替え疾走する彼らのスタイルは、ハッキリ言って「終わらない自分探し」に興じた80年代小劇場演劇のレトロスペクティブである。「私」のアイデンティティを支える物語が不在であるため、次々に目新しい差異を持ち込み虚像的記号への欲望を喚起するほかない消費の運動(商品=上演)。このとき、道化であることの根拠のなさを演劇に従事する若者であることの根拠のなさと重ねるのであれば、本作は震災以後に高まったコミュニティ不安と、経済的に不安定な若手演劇人の生活の不安を重ね合わせ、「コミュニティの再癒合」を目的とした祝祭劇でもって解消しようとする〈道化―モラトリアム〉の演劇と言わざるを得ない。

 道化に若者のモラトリアムが代入されるとき、「道化の疾走」はナンデモアリの祝祭劇となる。しかし、本作のポテンシャルは本当にそれだけだろか。

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