
家族という場所
■機械のような家族
この記事は一部、心理的なハラスメントなどの描写が含まれています。
詳細に書いているわけではありませんが、読者によってしんどく感じる場合はご自身の判断で読み進める事を避けてください。
家族にはいろんな形や段階がある。
ある家族は一緒に住んでいないかもしれないし、ある家族はメンバーの誰かの厳格なルールや価値観で統率されているかもしれない。
ある家族は絆と愛でつながり、ある家族は家族になって間もない不安定さの上にあるのかもしれない。
それぞれの家族達はそれぞれの今を生きている。そういうものだ。
私が生まれた家は両親が自宅で家内工業を営み、よく徹夜をして仕事に追われていたが、経済的に困窮し、心理的に窮屈な家庭だった。
私と2歳下の弟は、父のルールに従って厳しく育てられ、ルールから外れたり父の価値観に照らして正しくないと判断した事には父の気が済むまで「しつけ」をされた。
私が7歳半の時に妹が生まれ、産院の一室で、訪れた親類に向かって父が「上2人(私と弟)は育て方を間違えたからこいつは叱らないで育てる」と言っていたのを覚えている。
いつだって父を「怒らせた」のは、『愚かで、何もできない、間違いを犯す者』である私たち家族だった。父には愛が無かったわけではない。ただ、おそらく彼もまたそのように育てられたのだろう、そうする以外の表現を知らないのだと想像する。
そんな父の怒りは瞬間湯沸かし器のように、一旦発生すると瞬時に沸点に達し、そうなると父は怒りそのものになってしまって、最初に何に対して怒りを感じたのかもわからなくなるほど長い間、ただ怒り続けた。
徹夜してもなお苦しい生活の中で、我が家において『効率』は何よりも大切だった。
家族は皆、何かしらの目に見える役割を持っていて、保育所から帰ると子供ながらに小さな手で家の仕事を手伝った。
家族の誰もが製造LINEに組み込まれ、部品のように同じクオリティでより多くの成果を出し続ける事を求められていた。
そんな家の中で、私は息をひそめるようにして大きくなった。
■扉を開けるとそこにはまた同じ扉があった
父の舌打ちが聞こえると空気が凍り付き時間が止まる、息が詰まるようなこの家を一刻も早く出たいという一心で22歳で結婚したのだけれど、当時の夫との関係性はまるっきり私の両親のパートナーシップの再現版だった。
自分の内側の世界が自分の外側の現実を創るのだから、夫婦の関係性を両親の様子から学んだ私が、両親と同じような結婚生活を再現することは自明ともいえる。
離婚の1年くらい前に、当時の夫との関係で悩み、母に相談した事があった。その時「結局、女が我慢しなきゃ」と言った母の言葉を今でも思い出す。
それが、彼女が生きている世界であり、暴力的で支配的な父と別れられない母の価値観であり、良いか悪いかではなくて、正しかろうとも、間違っていようとも、そうするしかなかったんだよね。
私の20代前半は、元夫の身体的、精神的な暴力を受け、薬を飲んだけれど死ぬ事に失敗し、「なぜ私は生まれてきたのだろう」と繰り返し自問した。
そんな状態のまま、その後娘たちが生まれ、私はようやく自分の命に価値を見出す事が出来た。
監視されて行動制限されたり経済的な自由を奪われた状態でも、子供たちは喜びをくれた。
だけどなぜ私は、踏みつけられる人生を意味もなく続けて行くんだろうか。そんな母親を見て育つ子供たちは幸せだろうか。
私は嫌だ。こいつ(元夫)に奴隷のように使い捨てにされるのはごめんだ。
女だからって、すべてを我慢して飲み込むなんていう価値観はおかしい。いつだって男が正しくて、女は男に従えだなんて間違えている。
元夫が期待する、「バカで言いなりで都合のいい召使い」という役割をこのまま演じ続けるのか?
子供たちを大切に思う、自分の中に力がわいた。
私はこの不条理の世界に住み続ける以外の選択をできるはずだ。
時代はまだ「セクハラ」「モラハラ」という言葉も概念も、日本にはなかった頃。
そして私は離婚に向かった。
■とらわれていた世界
初めて自分で掴み取った自由は鳥肌が立つほど素敵だった。
仕事が見つかるまで3ヶ月だけ、大嫌いな実家で暮らし、早々に仕事を得て、アパートを契約し、保育所を見つけて、娘たちと3人の暮らしが始まった。
でも、手に入れた自由には『責任という相棒』がぴったりと寄り添っていた。その相棒が「お前なんかに責任が取れるのか?」と挑発してくる。
私の中のシャドウはすぐさま反応して、ファイティングポーズを取った。子供達を立派に育て上げる。片親だからってバカになんかさせるもんか。
新しい世界に羽ばたいたはずの私はまだ小さく、頼りなく、話す言葉はいつもギスギスと不快な音を立てた。
そんな感じで、いつも周囲に対してまず自己防衛を固めてから接する私は、自分が育った頃と同じように、娘たちにとって息の詰まる家を作っていたと思う。
その頃、私自身がまだ社会の存りようを学んでいた段階だったのと、後生大事に持ち続けていた「人生は戦いだ」という呪文が、まんまと私の日常に次々と「敵」を召喚していたから、気の休まる時がなかった。
後に再婚してから、大きく成長した娘達には「本当にあの頃はごめんね」と何度か謝った。
そんなわけで、3人でスタートした私の新しい家族は、これまでの2つの家族がいた世界の延長線上にいた。
今の私がこの頃を振り返る時、これらの悲しくて辛い時期も、私の成長の過程でしかないと思える。
まともに反抗期を過ごさないままで思春期を終えた私の、これが遅い遅い反抗期だった。
世の中の不条理に歯向かい、空にむかって唾をはき、それを自分で回収することを繰り返していた。。
■森に出会う
この段階を越えるのに10年かかった(笑)
人の成長はかくも困難なのよ。
母が支えてくれたおかげで仕事も続けることができ、海外で仕事をさせてもらえるようにもなった。
この間、海外出張で留守にするたび子供たちを預かってくれた母には感謝しかない。
さて、この頃には今の夫と一緒に働いていた。
夫との馴れ初めや、結婚に至るまでのストーリーはYouTubeで公開しているので興味のある方は是非。
夫と娘たちとの新しい家族がスタートした。それまでの夫の子供たちに対する態度から、マイルールを押し付けたりする人ではないと分かっていたけれど、夫には「父親なんだから」「子供なんだから」という気負いがないように見えた。
同じように、夫なんだから、も、妻なんだから、もない。
私たち家族がどうしたいのかに耳を傾けて、いつも見守っている、例えるなら森の大木のようだった。
そんなふうに、直接対決しない事や、あまり負の感情を表に出さない夫のおかげで、子供達はいつしか夫をお父さんと呼ぶようになり、やがて気がつけば父と子の間に愛情が芽生えていた。
今の家族は例えるなら一つの生態系のようだ。
それぞれが必要なものを受け取りあい、与え合う生態系のように、エネルギーが循環していると感じる。
木は他の家族に木のルールを押し付けないし、木のすごさを認めてくれとも主張しない。
鳥は他の家族に飛ぶ事を教えようとしない。
気持ちよく風がとおるし、新たな住人がやってきてもやさしく包むゆとりがある。
時々、歪んだレンズで物を見る時もあるけれど、「そのメガネ、もう古くて歪んでるね」と言われても「そんなこともあるね」と笑って流せる。
今、自分が何を必要としているのかを安心して伝えられる。
「寂しいんだよう」
「心配してるよ」
「なんだか否定されている気分だな」
それでも関係性は壊れない。それぞれの内側にある真実を、否定するのではなく「そうなんだね」と受け取るからだ。
それは、かつての私が知らなかった、新しい関係性だ。
最初の2つの家族がメンバーを役割でしか見ない機械のような家族だったのに対して、今の私の家族は気持ちを大切にしつつ日々成長し続け、変わり続ける森のような家族だ。
そうやって変わり続けることを良しとしている私たち家族は、この関係性がいつかカタチを変える瞬間も、その変化に合わせて自分達を変えていくことができると信じている。
それは病気や、環境の変化、もしかしたら誰かの退場(死)かもしれないし、それ以外の理由でかもしれない。
その時にはまた、それぞれの本音やニーズを正直に伝え合って、応援し合って進んでいけるんだろう。
こんな家族の形を知ることが出来て本当に良かった。
そして、このことはたくさんの人に私が伝えたいことの大きな要素なんだ。
「今のあなたの関係性は、あなたが望んだ姿ですか?」
もし答えがNOなら、自分から関係性を変えていくこともあなたにはできるはず。
家族・家を暖かいHomeにしたい。という願いを持つ仲間と、この近くて大切な関係性と向き合うためのワークショップを開催していく予定だ。
みんなにとって、家族が安らげる場であってほしいと願っている。
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