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ハノイの木

 邪魔だなこの木。

 ガイドブックには、「テラスでハノイ大聖堂を眺めながら贅沢なカフェ・タイム!」的な売り文句と共に紹介されていたカフェ『La Place』。載っていた写真と同じ座席についてみたら、座席と大聖堂の間にまあまあデカい木がそびえ立っていてカチンと来た。
 食や景色に執着するタチではないから、たかだか一本の木に腹が立ったのは、おそらくこの暑さと疲労のせいだろう。昨日の昼過ぎにハノイに着いて、荷解きもそこそこに旧市街に繰り出し日付が変わるまで飲んでいた。一緒に飲んでいた親切な現地人の若者が、俺をバイクの後ろに乗せて宿まで送ってくれた。お礼がしたくても、連絡先を交換しなかったし、何よりほとんど顔も思い出せない。二日酔いがいくらかマシになった今になって、昨日の自分が不甲斐なく思えて気が滅入っていた。加えて、天気予報には曇りのち雨とあったのにこの晴天、この蒸し暑さ。そしてこの木である。
 基本的に俺は昔からツいてない。ツキのない奴って東南アジアに一人旅とか絶対やってはいけない気がするが、タイだの香港だの、毎年夏になると懲りずに一人旅に出掛けている。で、毎年異国の地で何かしらの小さな不運が度々起こり、来年からは2度と一人で海外になどいかないと誓うわけだが、おそらくこれは意地だな。
 そんなことを考えていたら、アイスレモンティーと灰皿が運ばれてきた。ハノイはどの店も喫煙が許されているのが良い。アイスレモンティーを一口飲んで、タバコに火を付けると、街中に溢れかえるクラクションの音が遠のいていく気がした。

邪魔な木

 カフェの前の通りには、端から端までスクーターがずらりと停められていた。敷き詰められていたという言い方の方が適切に思える。例の鬱陶しい木の下はプラスチックのカラフルなテーブルや椅子が置かれていて、現地人や観光客たちが何やら美味そうだけど衛生的にどうなんだろう的なもんを食べたり飲んだりしていた。
 その通りとT字に交わっている少し広めの車道は、大量の車やバイクがクラクションを鳴らしながら行き交いしていて、その隙間を縫うようにぞろぞろと人が歩いていた。ハノイには交通規制なんてあったもんじゃない。まあまあ大きい道路にも信号は少ないし、あってもほとんど無視されている。
 大聖堂の前の広場でたむろしているのは、ほとんど観光客だろう。みんなスマホやカメラを構えて、大聖堂を撮ったり、大聖堂を囲む低いフェンスによりかかってポーズを決める友達か恋人を撮ったりしていた。楽しそうだった。やっぱり一人より誰かと一緒の方が旅行って楽しいんだろうな。二本目のタバコに火をつけて、来年からは2度と一人で海外になど行かないと誓った。
 木のせいで大聖堂本体が見えないから、その前の広場ばかり眺めていた。お前がそこに立っていなきゃ大聖堂に見惚れて前の広場で繰り広げられている楽しげな旅行者になんて目が行かなかったはずだ。やっぱり邪魔なんだよお前。滅入っていた気が余計に滅入るのはお前のせいだ。
『大聖堂 木で見えないから 気が滅入る』
 やかましいわバカ。
 一句詠んだところで、低いフェンスの真ん中あたりにいた女性に目が止まった。白いノースリーブのワンピースを着た、腰まである長い黒髪を携えたスラッとした女性で、頭には、映画とかでよく見る、ベトナム人の、例の浅い円錐型の笠(ノンラーという名前らしい)を被っていた。上から見ていたので、顔は笠に隠れてよく見えなかった。特段ポーズを決めているわけでもなさそうだったが、小太りでほとんど角刈りに近いツーブロック(ベトナムの男は老若問わずこの髪型が多かった)の野郎が、コミケさながらに一眼レフを低く構えてパシャパシャやっていたから、やっぱり撮影だった。
 あの笠って若い人でも被るんだ。いやもしかしたら珍しがって笠を買った観光客かな。でもあの角刈りはどう見ても現地人だし。
 表情は見えないが、その女性の自然体な立ち姿はどこか退屈そうにも思えた。角刈りの彼氏に付き合わされているのか、もしかしたらモデルか何かでこれは本格的な撮影なのか。少し興味が湧いてきた。
 俺が2人に気付いてから数分経って、角刈りはカメラを顔から離し、中腰をやめた。まあまあデカい奴だった。角刈りはカメラを眺めまわし、女性に何やら話しかけると早足に広場を去って行った。カメラの不調なのかな。残された女性は両手で笠を外して、首で振って髪を少し揺らした。
「可愛い…」
 誰にも聞こえないボリュームだが思わず声に出た。彼女の顔立ちから何となくベトナム人であることはわかった。すっと通った高い鼻と薄い唇、少し太めだが形の整った眉と、その下には大きく切れ長の目が気だるそうに空を見つめていた。顔は小さく、本当にモデルのような体型だった。
 出国直前にあった会社の健康診断で遠方の視力が両目0.4と診断された俺が、30メートルほど離れた距離でこんなに詳細に女性の顔が認識できるとは。視力検査は欠けた輪っかよりも女性の顔でやるべきだ。
 バカなことを考えながらぼんやりと彼女を眺めていた。彼女は色々なところに視線を投げかけていた。何やってんだ角刈り、あの子が退屈してるだろうが、早く戻って来いよ可哀想に。
 灰皿に置いた二本目のタバコは、吸えないくらい短くなっていた。アイスティーの氷も小さくなっていた。改めてしっかり火を消して、アイスティーに口をつけて彼女に視線を戻したその時、彼女と目が合った。
 この距離だ。気のせいだと思った。しかし、彼女は一旦外した視線をもう一度俺に戻し、今度は少し笑って見せた。
 マジ?
 俺も少し笑い返してみた。すると、彼女は口に手を押さえて笑い、もう片方の手で手を振った。俺も同じように手を振りかえした。

 マジじゃん。俺じゃん。こんなことあるんだ。

 さっきまでの退屈そうな顔は少し冷たい印象を受けたが、笑顔からは優しさが感じられた。改めて、綺麗な人だなと思った。
 調子に乗った俺は、隣の空席を指さした後、彼女に手招きした。彼女はもっと笑って、自分を指さした後に俺の方を指差した。
「隣空いてるから、おいでよ」
「私があなたの隣に?」
 そんな感じだ。冗談めいた他愛もないやり取りが楽しかった。
 彼女に笑いかけながら、次のジェスチャーを考えていたら、彼女の背後にカメラを持った角刈りが走ってくるのが見えた。
 てめ何早く戻って来てんだよ。良いところなのに。もうちょっとゆっくりして来いよ。楽しいやり取りに水を差すな。
 心底ガッカリしていると、角刈りは彼女のいるところまで到達した。そして、俺の幻滅にダメ押しするかのように、後ろから彼女にハグをした。
「何!?」
 今回はまあまあのボリュームで声が出た。驚いて振り返った彼女と、息を切らした角刈りは互いに笑い合っていた。息が止まった俺に彼女は少し笑いかけ、角刈りに手を引かれて広場を去って行った。
 モデルだの撮影だのという俺の空想は全くの的外れで、ただのカップルのデートだったという事実に打ちのめされた俺の耳に、心なしか先程よりも大きなクラクション達が鳴り響いていた。残念でした〜って言われている気がした。
 俺はアイスティーを一気に飲み干して店を出て、さっき彼女がいたフェンスの前に歩いて行った。大聖堂の目の前だった。

ハノイ大聖堂


 精巧な作りで、立派なものだった。
 やっぱりそうだ。お前がそこに立っていなければ、俺は広場に目を向けて、こんなぬか喜びをすることもなかった。

 木め。角刈りにしてやる。

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