毎年地元の同じメンバーで集まるということ
目標を決めて、それに向かって進んでいくということのつまらなさを感じることがある。
未来はどうなるかわからないからおもしろい。
「自分が思い描く未来をイメージすることで、そこに向かって進んでいくことができる」という話をよく聞くけれど、自分が思い描く未来になったら、それは嬉しいことなのだろうか。
映画なんかを見てても、自分が「こうなるだろうな」と思っているストーリーラインをぶち壊されることに快感を覚える。
なにしろ、未来を確定させたくないんだろうなと思う。
だから、いつでもすぐに次の場所に行けるような準備をしているんだろうと思う。
それは、自分が今いる場所に満足できていないというのもあるかもしれないし、自分のルーツを認められていないというのもあるかもしれない。
学校を卒業した後に、自分の母校に帰り、当時の担任に今の自分の状況を報告したりする人がいる。
自分はそれができなかった。
したいとも思ってなかったのかもしれないし、そうすることがなんとなくカッコ悪いと思っていたのかもしれない。
自分は前に進んでいる。
過去に懐かしんでいる暇なんてない。
あるいは、もう担任の先生も含めて、みんな前に進んでいるのだから、今さら自分が会いに行っても迷惑だろうと思う部分もあったのかもしれない。
そんな、卒業後に母校に顔を見せに行くというのと、少し似たようなところがあるのではないかと思うのが、「毎年必ず地元の同じメンバーと集まってます」というあれ。
見方を変えるとそれは、「そこにいつでも無条件で自分を受け入れてくれる場がある」ということでもあり、そのように考えると、それは安心と心の安定につながることのような気もする。
それでも、なぜがそれがカッコいいことのように思えない。
自分のケースを思い返してみると、それは自分の地元特有のことなのかもしれないけれど、クラスの中心人物ではなかった人たちが、いつも同窓会を企画したり、地元の友達と集まったりしていた。
そのことが気になりすぎて、学校の教員をしている友人にわざわざ電話して尋ねてみたのだけれど、やはり同窓会を企画する人は、当時の中心人物ではなかった人が多いとのことであった。
それはどういうことなのだろう。
もしかすると、当時輝いていた人は、今も輝いているのかもしれない。
そして、もし当時輝いていた人が、今輝いていない場合、逆に今の姿を見られたくないと思うかもしれない。
そのように考えると、当時輝いていなかった人が、今も輝いていない場合、過去が少しばかり美化され、当時のメンバーで集まりたいと思うのかもしれない。
あるいは、当時輝いていなかった人が、今は輝いている場合、今の自分を見てもらいたくて、当時のメンバーで集まりたいと思うのかもしれない。
そうすると、やっぱり当時のメンバーで集まりたいと思う人は、当時のなんらかのマイナスの思い出を癒そうとしているのだろうと考えられる。
母校に帰る人も、同じように、当時のなんらかの思い出を癒そうとしているのだろう。
そのことが、過去に囚われているように思えるから、それがカッコ悪く感じていたのかもしれない。
こんなことを書こうと思って記事を書き始めたわけではない。
それでも、自分がここ最近ずっと感じていたモヤモヤの理由が、記事を書くことでなんとなくわかった。
やっぱり、未来はどうなるかわからないからおもしろい。
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