閉ざされたカウンセリングルームと開かれたカフェ
カフェでのカウンセリングは成立しないと言われる。
誰が聞いているかもわからない場で、自分の個人的な話はできない。
そのことについては、自分も納得できる部分はある、というか、「当然そういうものだ」と思ってしまっている。
それは、「カフェなんかでカウンセリングはできない」と教えられてきたからかもしれないし、直接そのようなことを教えられていないにしても、臨床心理士の訓練の中では「カフェなんかでカウンセリングはできない」というような思考になるようなトレーニングを受けてきたということかもしれない。
臨床心理学の学問的な積み重ねに沿うと「カフェなんかでカウンセリングはできない」ということになるのかもしれないけれど、「カフェ」という場を改めて考えてみたときに、「カフェ」を使った心理的支援もできるんじゃないかということを思ったりもしている。
集団心理療法というのは、結構いろいろなところで実施されていて、それなりに効果もあると言われている。
しかしながら、そこでも、「ここでの話はここだけの話で、外部には決して持ち出さないでください」という枠組みを作り、安心を保証して、話をしてもらう。
もしカフェなんかで行うとしたら、「ここでの話はここだけの話で、外部には決して持ち出さないでください」なんて、成立しない。誰が聞いているのかわからないのだから。
だけど、密室でカウンセラーなんかに話を聞いてもらうなんてことは、普通に生活していたら、ほとんど起こり得ない。
みんな、カウンセラーなんかじゃなく、自分が信頼している友人や先輩などに対して、自分の個人的な話をしている。カフェなどで。
カフェは開かれている。
自分がした個人的な話を、もしかしたら誰かが聞いているかもしれない。
それでも、多くの人は、あまりそんなことは気にしないんじゃないかという気もする。
なぜなら、ほとんどの人は、個人的な話をカウンセラーに聞いてもらうのではなく、カフェで友人や先輩に聞いてもらっているから。
閉ざされたカウンセリングルームでないと治療的な関わりはできない。
そう言われると、たしかにそうかもしれない。
けれど、いずれカウンセリングルームに通わなくても良い状態を目指すのだとするなら、ある程度開かれた場所でも、自分の個人的な相談をできるということが、多数派の一員になるということなのかもしれないなあとも思う。
マルチ商法の勧誘とかは、結構カフェとかで行われてたりするけれど、カフェでカウンセリングをやってみたらどうなるんだろうというのは、気になるところではある。
一つのカフェの、いろいろなテーブルで、同時並行的にカウンセリングが行われるような、そういうフランクなカウンセリングが浸透した社会をイメージしてみて、でも別にそれは自分がやりたいことでもないよなあと思ったりする。
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