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心で心を思う

自己心理学のハインツ・コフートは、生まれたばかりの赤ちゃんに「自我」は備わっていないけれど、養育者が赤ちゃんを「自我」を備えた存在とみなしてかかわることで、赤ちゃんの「自我」は育つと言った。

生まれたばかりの赤ちゃんに「こうしてほしい」という明確な意思はない。

赤ちゃんにとって、赤ちゃん自身の行動は、言わば無意味な行動である。

その無意味な行動に、養育者は意味づけをしていく。

赤ちゃんが泣いていることに対して、「お腹すいたね」「オムツが気持ち悪いね」「寂しかったね」などと声をかけながら、赤ちゃんの行動に意味づけをしていく。

そうすることで、赤ちゃんの無意味な行動に意味が与えられていく。

コフートは、その養育者による意味づけが正しいとか正しくないとか、そういうことではなく、赤ちゃんの行動の背景を考えて意味づけをすることそれ自体が、赤ちゃんの「自我」を育てると言っている。

「心で心を思う能力」として「メンタライゼーション」とか「メンタライジング」という言葉が心の臨床の業界で少しずつ広がりを見せているが、そこでも、養育者がこどもの行動の背景を想像すること、つまり養育者が、養育者の心でこどもの心を思うことそれ自体が、こどもの「心で心を思う能力(メンタライジング能力)」を高めるとされている。

「この子のことがよくわからないんです」

「この子は私を困らせようとするんです」

「この子はいたずらしかしません」

そんな風に決めつけることは、「心で心を思う」ことを拒否する態度であり、メンタライゼーション的なかかわりから遠ざかる考え方である。

しかし、そのように思ってしまう養育者の背景にこそ、支援者は目を向けるべきである。

支援者が養育者にメンタライジング能力を発揮させてかかわることで、養育者のメンタライジング能力が高まり、それはこどものメンタライジング能力を高めることにつながるからである。

「あの親には話が通じない」

「あの親は全然こどものことがわかっていない」

「あの親は人格障害である」

そんな風に支援者が親を見て決めつけてしまうことが、「心で心を思う」ことを拒否する態度であり、メンタライゼーション的なかかわりから遠ざかる考え方である。

しかし、そのように思ってしまう支援者にも、きっと何らかの背景があるはずである。

支援者が職場で、メンタライゼーション的なかかわりをなされていない場合、支援者は心で心を見ることができなくなるかもしれない。

「あいつは全然仕事ができない」

「あの人は何をやってるのか全然わからない」

「心理士の仕事って意味あるの?」

すべての原因を社会に求めるという結論は安直であるように思うけれど、今社会の中で起きていることの構造を理解しつつ、それでは自分には何ができるのかというところから始めていきたいと思う。

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