自分と仲良くする。

編入してから3学期目が終わり、いよいよあと1学期で卒業になる。
5月中旬から夏休みが始まり、2週間ほど友人とアメリカ南部を車で旅行し、6月からはインターンシップとサマークラスを2つほど取っているので、やることが盛りだくさんの日々だ。

アメリカの大学は基本秋が学年度の始まりになるので、この一年(秋・春)は、最初の学期での過ごし方の反省を生かしてもっと面白くしよう、と当初から思っていた。

そんな一年の中で、特に春学期は、色々あった。
秋学期は、クラスで忙しい中、インターンシップに向けてレジュメを準備したり、とにかく片っ端からインターンに応募したりするなかで、本当に頭が狂いそうになった。夜中3時ごろまで課題をやって、朝9時の授業に出て、おそらくストレスで(それ以外が原因だったら怖いので、病院には行かなかった)慢性的にえづいてしまうなんてこともあった。

月曜から金曜の夜まで勉強して、たいして寝ずに金曜と土曜の夜はパーティに行って社交的になるための訓練をする日々。自分が勉強している間に、どこかで時間を見つけて常に遊んでいたり、ずる賢く成績をキープしながら就職に向けて準備を進めていくクラスメート、自分と同じようなクラスを取りながら、運動部に所属していて毎日練習があるのに、いつも元気そうなやつ。自分の現在のキャパシティの限界を突きつけられているようで、苦しかった。

せっかくの週末も、「今度は話しかけるぞ」と思ってやらずじまいになったか数え切れないほど同じ失敗を繰り返した。

「自分の好きなこと、やりたいことを休みの時くらいやったほうがいいよ」と言われたこともあったが、1人でゆっくりすることが「大人数の他人がいる場で誰にも話しかけられない自分」とそれに伴う悔しさに屈してしまうようで、出来なかった。

多分以前の記事でも同じようなことばかり書いていると思うが、常に「できない自分」を踏みつけて、「なんでいつまでもできないんだよ」と叱りつけて、ボコボコにしてきた。

それは春学期でも続いた。

だが、学期の途中、客観的に見れば些細のないことだけど、自分にとって大きなきっかけとなる出来事があったことで、あることに気がついた。

今まで、過去の経験をトラウマとして認識し、いつまでも囚われて他人には見えないハードルが見えてしまう自分を嫌って、ずっと「なんでこんなことも出来ないんだ、周りはどんどんその先の先に進んでいるのに」という考え方に縛られてきた。

「今話しかけて嫌われたらどうしよう」
「今目があったあの人は、「なんだこいつ汚い顔だな」と思ったはずだ」
「的外れなことを言ってバカに思われたらどうしよう」

そうやって、常に綱渡りをしているような気分で、生活をしてきた。
自分の一挙手一投足を、ネガティブな形で反省してきた。

仲良くなったはずの人でさえ、「この一言、行動で嫌われるんじゃないか」という恐怖が常にあったし、それは今もある。

でも、それを続けて、大切にしようとしているものって何なんだろう、と考えさせられることがあった。

他人に見えないハードルを、他人には信じられないほど遅いスピードで、苦しみながら進んだ先に、必ずいいことがあるほど、ドラマみたいにうまく出来てない。

過剰なほど気を遣って、嫌われないようにと努めてきた人間は、明日どこかにいなくなるかもしれないし、もう一生会わないかもしれない。他人は他人で、好き勝手に生きているし、それで当たり前。

ただ、「これだけ頑張ったのだから、いい結果になる」というナイーブな感覚がどこかにあったので、そのせいで苛立ったり、悲しんだり、「何で俺だけいつもこんなことばっかりなんだ」と、視野の狭い考え方に陥っていた。

死ぬ時に、自分の人生を最終的に採点するのは自分でしかない。
耳元で、誰かが「あなたの人生はOO点でした。よく頑張りました。」なんて言ってくれない。そもそも、誰も俺のことを気にしてない。

あと、自分以外の人間はほぼ皆完璧で、だから彼らの価値観が絶対で、「ダサい・つまらない」などネガティブに捉えられることは、コミュニティ全体からの拒絶だと感じていて、怖かった。

でも、多分それも違う。大雑把に言えば、他者も俺と同じくらいクズだ。
そう思うことによって、なぜか他人からの目を多少気にしなくて済むようになった。まず、自分を採点するのは自分であって、そしていつも評価されているように感じる他人からの目は、俺と同じくらいクズな人間からの採点だから、特に気にする必要もない。

言い方を変えると、今まで自分を下げて他者をリスペクトしすぎていた気がする。だから、無理な期待をしてそれを裏切られたことによって「この人ってこんな人だったんだ。」と落ち込むことがあったが、そんなものは自分の幻想が産んだものでしかないと気づいた。

悲観的に聞こえるが、いい意味で他者に期待しないほうがいいと最近になって思った。

常にこちら側を気にしてくれて、優しい言葉をかけてくれて、辛い時には寄り添ってくれる、そんなリスペクトフルな人間はほぼいない。だけど、いるかもしれないから、そんな心から気が合う人を探すために、人に会う。

変な声の掛け方して、「こいつ気持ち悪いな」と誰かに思われたとしても、そいつの採点は自分自身でする採点には関わらない。そして、そういう人間に出会ったということは、違う気の合う人間に会える確率が上がったということだと言い聞かせる。

YouTubeなんかで、歌手やお笑い芸人のライブ映像を見て、大勢の人間が、たった一人や二人の一挙手一投足に注目して、その対象が何か行動を起こすことを待ち侘びている様子を見ると、悔しくなる。その悔しさは、これまで貯めまくって発酵している承認欲求の塊が原因なんだなと思うと、寂しくなる。今まで書いてきたことと全く矛盾している、「他者からの注目によって承認欲求を満たす」ことを目指しているのか…と悲しくなる。

でも、それはそれでしょうがない。そういう生活をしてきたから。
誰に聞いても意地の悪い知人に、彼女ができた。意味がわからない。
自分が、誰から何が欲しいのか、どんなことをすれば満足できるのか、分からない。

だから、「見た目を変えて自信をつけたいならジムに行って体を大きくするんだ!」みたいな言説を、「外見のこと言うのって良くないよね」みたいなこと言ってるくせに結局見た目じゃねぇかよ、浅はかだななんて悪態をつきながら、ちょっと期待してジムに行ってしまう。

話が逸れすぎて全くまとまりがなくなってしまった。

詰まるところ、人の目を気にするとかしないとかじゃなくて、死ぬまで絶対に一緒にいなきゃいけない自分ともっと仲良くして、その上で気の合う人間を見つけられたらいいなということでした。

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