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好きな人の嫌いな人

「〇〇ちゃん、わたしきらいなんだよね。えらそうなところがムカつくっていうか、なんか調子乗ってるっていうか、いちいち鼻につくっていうか」

−−そういう場面に出くわすことは大人になると結構減る。いや意外とあるけれど。ここまでわかりやすい悪口を聞くことは、さすがに減っていく。もちろん、付き合う人とか、所属しているコミュニティの特徴によって多少の個人差、共同体差はあるけれど、とはいえ、小中学校のときに経験したそれの数よりは、いくぶんか少ない。

悪口は言わない方がいいとか、陰口はもっとタチが悪いだとか、そういうことが言いたいわけではなくて、つい最近、自分が無意識のうちに結構やってしまっていたなと思うことについて、あらためて反省という形で雑に書いている。

小中学校のときは、家族、好きな人、あるいはつるんでいる集団のリーダー格の人間の価値観であったり、嗜好性が自分に移植されるケースが多い。人は人を見て育つし、人は社会的な生き物だから、社会からフィードバックを受けることによって学習する。主語が大きいのは許してほしい。

どちらかというとそれは、気がついたらそうなっていたというよりも、「その人に嫌われるのが怖いからそうしている」ということの方が多い気がする。
ここで、自己啓発書であれば、「自分の人生を生きろ!」とか「周りに流されるな!」という方向へ議論が展開されていくのだが、僕が言いたいのはそういうことではなくて「自分の考えなのか、その人の考えなのか自覚的に切り分けるといいよね」ということである。

どういうことかというと、共感の麻薬に浸りすぎると抜けられなくなるし危険ということである(さらにややこしくなった)。
最近僕自身がやってしまって危険だなと思ったのは、例えばSNSで自身がフォローしているインフルエンサーや著名人、ビジネスマンなど彼らの投稿に割と瞬時に「共感」してしまうことである。

SNSは自分の嫌いなものを覗くツールではないので、自分のタイムラインにはたいてい「好きなもの」だけ流れてくる。マグロとサーモンといくらだけが流れてくるように、そしてつぶ貝や〆サバは流れてこない回転寿司のような。子どもからすれば、つぶ貝を流してくるのはとても迷惑であるので、なるべくマグロやジュースが流れてきてほしい。

そうやって嫌いなものを省いていくと、どんどん「好き」が先鋭化していく。
僕は、どちらかというと好きなものに囲まれることを否定したくはないし、好きに溢れた人生は素晴らしいと思っているから、ここで「つぶ貝も食べろ」と言いたいわけではない。

SNSには好きが溢れている。好きな人の話は面白いし、面白いから好きなのだとも思う。けれど、その人が何かを「嫌い」と言ったとき、自分までそれを「嫌い」になる必要はどこまであるのだろう?というのは少々疑問でもある。

僕はどちらかというとすぐ納得してしまう節があるので、インフルエンサーのポジショントークには結構あっさり「なるほど、たしかにそうだ」と思ってしまう。一度ハマってしまうと、共感するところから思考を始めてしまうようになる。
彼らが放ったその言葉は、あくまで彼らの価値観、彼らの判断であるはずなのに、共感が自動化されていると、まず「自分もそう思っている」ところから思考が始まる。もちろん共感という概念がないと人は寂しくて死んでしまうだろうから、僕らはある程度共感を摂取しないといけないし、共感を提供しないといけない。
けれど、それが本当に自分のゆらぎなのか、あるいは、「彼の好きなものを自分が好きなように、彼の嫌いなものを自分も嫌いになる方が筋が通る」と思ってはいないだろうか、と考えるプロセスを一度挟んでおくことは、当たり前なようで、慣れてくるとどんどんできなくなっていく。

僕自身、嫌いとまではいかないものの、尊敬する人が何かに対して苦言を呈していたとき、「彼の言う通りだ、これはたしかにひどい」と先に思ってしまうことがある。それは、自分を見失うこと以上に、感情に対してあるべき態度ではない気がする。簡潔に言えば、感情に対して無責任だ。
嫌いになるなということではない、共感するなということでもない、ただ、自分に一度、こう尋ねてみるとよいのだと思う。

「それ、あなたのきらいなものですか?」と。

自分の感情を自分で言語化する、そして自分で「正しく」認識していくのは、結構つらい。だから人はコミュニケーションを取るし、誰かの言葉は、風と詩と歴史に乗って、どこまでも飛んでいく。

共感できるときは、やっぱりどこまでも気持ちがいい。自分の居場所を、砂漠のオアシスを見つけたようなときの安心感は、そうそう簡単に手放せるものではない。

だから、疑う機会が減っているとき、人は幸せなのだと思う。僕もそう思う。尊敬や畏怖、信頼のラベルに、疑いをぶつけることは色々と滑稽だ。

でも、だからこそ、そのラベルに甘えてはいけないのだとも思う。
自分の感情を誰かが代弁してくれることに、自分の価値基準の一貫性が、誰かによって規定されるこの素晴らしき秩序に。

滑稽に、そしてぐちゃぐちゃになっても、やっぱり疑ってみることは忘れてはいけない。

「それ、本当にあなたもきらいなんですか?」と。

あれ、結局よくある自己啓発書と同じことを言ってしまっていたな。
なるほど。滑稽、ここにあり。

2020.01.19 

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