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No.3 「もう恋なんてしない」

第三回は、超有名曲「もう恋なんてしない」を紹介したいと思います。サードアルバム『君は僕の宝物』の三曲目ですね。

めちゃくちゃいい曲です。知ってるよ、という人も多いかもしれませんが。

当時槇原の曲のキーボード担当をしていた本間昭光さん(その後ポルノグラフィティやいきものがかりのプロデューサーも担当されたすごい方です!)が失恋したという話を聞き、彼を励ませるような歌を作ろう、と思ったことがきっかけで誕生したそうです。

一瞬意味が掴みにくいサビの「もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」はとても有名ですが、やはり誤解が多いような気がしますね。その辺もすっきり解きほぐしていきましょう。6900字あるので、適当に読み流しつつ楽しんでください笑。

それでは、歌詞を見てみます。

君がいないと何にも できないわけじゃないと
ヤカンを火にかけたけど 紅茶のありかが分からない
ほら朝食も作れたもんね だけどあまりおいしくない
君が作ったのなら文句も 思い切り言えたのに

早速、失恋した主人公の登場です。主人公が「君」と同棲していたことが窺えます。結構長い仲だったんでしょうね。一人になってみたらモーニングルーティンすら満足にこなせない、ちょっと無様な男の姿がコミカルに描かれています。

家の中に「君」なりの動線があって、これはここあれはあそこと物をしまう場所も決まってて、別れてみてからふと、そこに「君」の残り香のようなものがある事に気づく。そしてそういう「君」に無意識に頼り、何も見てないことがたくさんあったのにも気づく。

紅茶っていうチョイスが絶妙です。朝食で使うようなものって大抵、置いてある場所の推測がつくじゃないですか。冷蔵庫だろうなとか、食器棚だろうなとか。でも、ティーバッグとかって人によってどこに置いとくかに差が出やすくて、意外と確定できないですよね。僕も小さい頃母親がいない時に、好きだったお茶を作ろうとして、キッチンを探し回った覚えがあります笑。

寝ぼけ眼で髪ボサボサの大人の男が、紅茶一つ見つけられなくて家の中をフラフラしてる。なんかクスッとして、でもちょっと切ない。こういう喜劇的な切なさがしんみりさせます。

後半二行の、朝ごはんを作ってみるくだり。さだまさしの「関白宣言」的な含みのある、これまたセンス抜群の表現です。何も反省してないじゃんという読み方をしてる人も稀にいるみたいですが、ここは裏があると考える方が素直でしょう。

やっぱりここでも、「君」に色々任せっきりで、でも文句は一丁前に言ってと、勝手だった自分を振り返り反省してる様子が窺えますよね。「作れたもんね」と子供じみた空威張りをして、おいしくなくて、でもそれを発散する場所も無くて、一人でまずい朝食をモソモソ頬張る虚しさと言ったら。もっと大事にしてやればよかった、何も分かってなかった、とこういう時に一番思うものなのかも。リアリティというか、説得力があります。

一緒にいる時は 窮屈に思えるけど
やっと自由を手に入れた 僕はもっと寂しくなった

前のくだりから一貫してます。「君」がいた頃は、「朝食全然おいしくないじゃん」とか「紅茶早く作ってよ気が利かないなあ」とか、言わなかったとしても思ってたのかもしれません。

朝食に限らず、些細な不満っていうのは人付き合いをしていれば少なからず鬱積していくものです。恋人だと一緒にいなきゃいけない時間が長いから、いちいちイライラしてめんどくさくて、いるのが当たり前だと思っていればいるほど、自分にとってほだしになる「窮屈」なものに思える。

でも「自由」になってみた時に、あれは愛があったからなんだなとか、自分の方こそダメだったんだなって気づいて、「もっと寂しくな」る。当たり前じゃなくなってありがたみに気付く。めちゃくちゃ共感できる人いるんじゃないでしょうか。

ちょっと考えてみたいのは「もっと」です。比較がなされているということは、「窮屈」の中にもある程度寂しさがあったってことです。それってどういう寂しさなんでしょうね?

明確な比較の意思から「もっと」を用いたわけではないと思うので、牽強付会の感は否めませんが、強いて言えば独り身の友達が気ままに生きていたり、知り合いがもっと良さそうな人と付き合っていたりするのを羨ましく思ってしまう、そういうわがままから出たある種の寂しさ・虚しさのようなものが考えられているのでしょう。

さよならと言った君の 気持ちは分からないけど
いつもより眺めがいい 左に少し戸惑ってるよ

個人的ハイライトです。まず別れを切り出したのが「君」だというのが分かる。でもそれは、今までのところから大体わかってます。すごいのは次です。

「いつもより眺めがいい 左に少し戸惑ってるよ」。うん、天才ですよね(圧)。

まず「眺めがいい」。ぽっかり空いたようだとか、君がいない隣とかだと、正直ちょっと陳腐です。マイナスをマイナスで表現するなら、とりあえず感傷にひたっとくだけでも成立します。もちろんいい表現に落とし込むのが難しいのは確かです。でも、ここでは表現が肯定的なんですよね。ある種アイロニカルな。そしてより一層、以前より開けていて空虚な感じが伝わってくる。

*場面設定としてはどうなんでしょう。当初僕は街を歩いてる時とか、ふとした日常の一場面で気づくというニュアンスだと思っていたのですが、友達に「家でソファに座ってる時とかじゃないの」と言われて妙に納得しちゃいました。あくまで家の中での回想という方が、まだウジウジして再出発できていない心情をよく表現しているとも言えますよね。外に出てるとか解釈しちゃうと、もう切り替えられてる部分があるみたいなイメージになっちゃう気がします。

そして「左」。「隣」と言われるのと何が違うのか。「隣に君がいた」と言われた時をイメージしてみてください。カップルが二人並んでる姿を正面とか後ろとか、客観的な視点から見つめてる映像が浮かびやすくないですか?隣っていう抽象的な表現のせいでイメージが一気に中立的になっちゃうんです。でも「左」というと、主人公目線で映像が浮かびませんか。二人並んで歩いてる時に、視界の左にいつも君が写り込んでるっていう感じの。そしてそれが自分をより主人公に感情移入させて、物語の中に引き込むんです。ただの観客ではいれなくなる。

キーワードは「等身大の感覚」です。過去を振り返って、ある種昔の自分をも他者として「冷静に」捉える時に、「隣」とか「空いてる」とか、分析的な表現が出てくるんです。この曲はそうではなくて、一人の人間の目線から見える世界の感覚、与えられる印象、そういうものをありのまま的確に表現してるのがすごいんです。

喜劇を見ているようなイメージから始まって、「窮屈」のくだりからサビにかけて段階的に「僕」の視点に移行する。知らず知らずのうちに自分が物語の中に入り込んでいる。

最後の「戸惑ってるよ」も、「寂しい」とか「悲しい」とかより先に、それをまだ受け入れきれず持て余している感覚が伝わってきます。一緒にいた時間が長ければなおさらそうでしょう。明確にマイナスの感情として意識されるよりも、なんかおかしい、感覚狂うなあ、っていう方が前面に出てくる。こういう正鵠を射た素直な描写がもうとにかくたまらないんです。

三段階で畳みかけてくるここが、この曲の真骨頂と言っても過言ではないでしょう。

もし君に一つだけ 強がりを言えるのなら
もう恋なんてしないなんて 言わないよ絶対

一瞬戸惑うとこですよね。え、結局恋するの?しないの?って笑。

落ち着いて読めば分かるように、次の恋はすると言ってます。恋しない、とは言わない。つまりする。しかも絶対に。じゃあ次に進もうっていう前向きな曲として捉えていいのか?そんなことないですよね。

キーワードは前の「強がりを言えるなら」です。かの有名なフレーズは、ただの強がりなんです。強がって、「君のことが忘れられないなんて言わず、僕は次の恋に進んでやるぞ、絶対に。」と宣言してるわけです。言っちゃえばめちゃくちゃ引きずってるんです。本心では「君」を忘れられなくて、正直次の恋に進みたいとは思えていないんです。

このフレーズ、二番の最後にも繰り返されますが、そこではちょっと違う意味合いでも捉えられるんです。その違いにも注目してみたい。では、二番。

二本並んだ歯ブラシも 一本捨ててしまおう
君の趣味で買った服も もったいないけど捨ててしまおう
男らしく潔くと ゴミ箱抱える僕は
他の誰から見ても一番 センチメンタルだろう

再び独り身男の物悲しい描写に戻ります。一番からちょっと時間経過があるのでしょうか、身の回りの整理に乗り出すみたいですね。でも、そんなに大きな時間の懸隔はない感じです。

自分の周囲に残っている「君」の痕跡、次の歌詞では「抜け殻」と表現されていますが、それを尽く消してしまおうと。別れたんだから、もったいなくとも「男らしく潔く」綺麗さっぱり全部捨てる。

でも本当にサバサバしてたら、別に「君の趣味で買った服」だろうと何だろうと、捨てずに着ればいいじゃんってなると思うんですよね。それか捨てるとしても、もう後腐れはないと思ってポイッと捨てられる。そこにいちいち「君」への郷愁はないはずです。

「僕」は違います。強がって、懸命に「君」の痕跡を消そうとしてる。じゃないと思い出しちゃうんです。多分「ゴミ箱」に詰める時も、これはあの時買ったやつだとか、これは彼女が好きだったやつだとか、いちいち「君」を発見してしまう。

だから、「一番 センチメンタル」なんですね。めちゃくちゃ気にしてるくせに気にしないフリをしようとして、それが一層気にしてることを裏付けちゃってます。この逆説も経験したことがあるという人は多いんじゃないでしょうか。

今で言えば、付き合ってた人の写真をスマホから消すかどうか問題みたいなとこですかね。放っておくのか削除するのか、どっちの方が囚われていないのか分からなくなる。そうやって考えること自体、どっちにせよすでに囚われてるってことなんですけどね。

こんなにいっぱいの 君の抜け殻集めて
無駄なものに囲まれて 暮らすのも幸せと知った

「〜て、〜て」と同じ形が続くので並列しているのかと思いがちですが、違います。「君の抜け殻を集め」たことで、「無駄なものに囲まれて暮らす」ことの「幸せを知った」という流れです。「抜け殻を集め」かつ「無駄なものに囲まれ」て暮らす、というのではないです。

「無駄なものに囲まれて暮ら」していたのは、いつの話でしょう?別れる前でしょうか後でしょうか。どっちとも取れますね。

「一緒にいる」と「窮屈に思え」る君のものに囲まれて暮らしていた時代(別れる前)も幸せだった。あるいは、「君」の存在を感じられるものと暮らせるだけでも(別れた後でも断捨離するまでは)まだ幸せだった、ということです。なんとなく前者だと思いますけどね。

君あての郵便が ポストに届いてるうちは
かたすみで迷っている 背中を思って心配だけど

郵便物が届くってことは、実質同棲状態とかではなくて、本当にちゃんと同じ家に同棲していたんですね。住所変更の諸々の手続きとかが反映されるまでは、「僕」の家に「君宛の郵便」は届き続けるわけです。その間はまだ「君」の痕跡を感じずにはいられない。

「かたすみで迷っている背中」っていう表現が分かるような分からないような。どういうことでしょう。問題は「かたすみ」という表現をどう捉えるかです。

①部屋の「かたすみ」説
郵便物が届き続けている、というところがポイントです。これは彼女がまだ住所変更などをしていないということ。つまり、彼女の側にも未練があるのかもしれない...?ということです。

届き続けた郵便はおそらく、部屋のかたすみにでも堆く積もっているのでしょう。それは彼女がまだ「僕」のところに戻ろうと「迷っている」かもしれない証拠です。それを見るたび、彼女がもしかしたら戻ってこようとしているのかもなと、期待と心配の入り混じった気持ちになっているということですね。

「僕」が部屋のかたすみで郵便物を見るたび、彼女を思い出してしまう、という流れです。あるいは部屋のかたすみの郵便物に、迷っている彼女の姿を重ね合わせて「部屋のかたすみで迷っている君」と言っているのかもしれません。

②心の「かたすみ」説
「僕」の心の「かたすみ」にずっと「君」がいて、その「君」は迷っているということです。ここでも、郵便物が届き続けていることがその迷いの何たるかを示しています。もちろん「僕」と同様、親しんだ恋人のいない生活を持て余しているということとも取れます。

(「僕」が)心のかたすみで、彼女の背中を思って心配だということです。

(③町の「かたすみ」説)
上二説は「かたすみ」(僕)と「迷っている」(君)の主体が違うという解釈でしたが、「かたすみで迷っている」全部の主体が「君」という捉え方も可能です。

今「君」は、暮らしているどこかの町(もちろん町というのは便宜上使っているだけで、他の表現を代入してもいいと思います)のかたすみで、今後の去就についてまだ「迷っている」。ちょっとボヤボヤした解釈ですね。なのでカッコ付きの説にしておきます。


そして、「僕」は「君」の「背中」を思う。確かに、困った顔を思い浮かべるよりも、オロオロと迷っている背中を思い浮かべる方がより一層、「大丈夫かな」という切ない不安に襲われそうですよね。別れ話の去り際に見た背中が印象強く残っている、なんて解釈も可能かもしれません。

ここでは、もちろん未練がましい自分もいるんだけど、「君」もまた「僕」に囚われているのではないかと心配しているんです。もう「僕」は色んなものを処分して再出発しようとしている、でも迷う「君」はまだ郵送先を変えられていない。槇原お得意のお節介パターンです。でも、センチメンタルになってる時ほど余計に、相手のことも考えてより感傷的な気分に浸っちゃうって、結構リアルな心理だと思うんですよね。

二人で出せなかった 答えは今度出会える
君の知らない誰かと 見つけてみせるから

強がってます。でも、郵便のくだりを考え合わせると、一番の時のようなじめじめした追憶というよりは、本当に切り替えて行こうというカラッとした感じがする歌詞です。「僕」は頑張って「君」を忘れるから、「君」も「僕」を忘れて行ってくれと言っているような気もしてきます。

「二人で出せなかった答え」って言う表現がめちゃくちゃ好き。(語彙力)

本当に本当に 君が大好きだったから
もう恋なんてしないなんて 言わないよ絶対

名フレーズが繰り返されます。でも、ここまでの話を踏まえると、一番とは違って二通りに解釈できるんです。

①君が大好きだったから、もう恋はしないとは言わない
「君」のことが大好きだった。だからこそ、なお迷っている「君」を再出発させるため、「僕」が先に再出発しよう。それがお互いのためだから。強がりながらも、最後まで「君」を思っている僕の気丈さがジンときます。

②君が大好きだったからもう恋はしない、とは言わない
こちらは一番と同様、最後まで強がって言っているパターンです。君のことが好きだったから恋はしない?そんなこと言ってやるもんか!っていう感じです。こちらはこちらで曲として一貫していて、まとまりがある解釈です。でも個人的には①がいいなあ...笑

当初はこの歌詞、「もう恋なんてしないよ」で終わっていたそうです。しかし、プロデューサーに「救いがなさすぎてなんともなあ」と突っ込まれ、考え直した結果、この名フレーズが誕生したらしいんですね。確かに本当にもう恋なんてしないんだったら、聞いてる側としても「ああ、そう」しか思えないですよね笑

主に等身大の体験をベースに作詞している以上、どうしても歌詞は私小説的になりがちです。これは槇原自身自認しているところです。でも今回の場合、最後の「言わないよ絶対」の付け足しによって、単なる独り言がジーンと沁みさせる表現に化けているわけです。いかに等身大の感覚を他者にもアクセス可能な表現に昇華させるか。それが物を書くことの困難さでもあり、すごさでもあるわけです。

プロデューサー、ナイスプレイ!


ということで、名曲「もう恋なんてしない」の考察でした。6900字...。熱が入って長くなっちゃいました笑。今後基本的にはアルバム収録順に考察していくつもりですが、節目節目のナンバーで有名曲を挟んでいこうと思っているので、ぜひちょこちょこ覗いてみてください笑。

さて次回は、「もう恋なんてしない」のシングル盤のB面から「夏のスピード」をご紹介したいと思います。夏も終わりがけ、失恋した男の独白を綴った名曲です。早速アルバム順じゃないという笑。マイナーオブマイナー曲なので、ここで扱わないと中々出せないんですよね。

それでは。





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