母が子を殺める2003.07.20

女は、命を懸けて子供を産む。

それは、命がけで出産するという意味では、もちろんない。

新しい命をこの世に生み出した瞬間、
「この命のために自分の命を懸けよう。
命を懸けて守り、叱り、よい人間に育てよう。」
そう覚悟するのだ。

私は最近まで「母性」というものは、女のなかに生まれたときから備わっている核のようなものだと思っていた。
そして、私の認識が大きな間違いであると思わざるを得ない事件が次々に起こっている。

たとえば、秋田の殺人事件。私は母親が犯人でないことをずっと願っていた。
無論、その母親のためなどではない。殺された娘のためだ。
幼い命が人の手によって絶たれることは、誰が犯人であっても許してはならない。けれど、突き落とされる最後の最後まで、まさか母親に殺されるだろうなどとは思わなかった娘が不憫でならない。

泣かされて帰っても、まず無条件に抱きしめてくれるのは母ではなかったか、その後ゆっくり諭してくれたのは母ではなかったか。
すべてを惜しみなく与えてくれ、そして受け入れてくれる存在であるはずの母。

毎日の生活のなかで、子どもに対しての不満もあるはずだ。私だってもちろんある。
イライラを子どもにぶつけてしまい、寝顔を見て反省することなどしょっちゅうだ。
でも、それが自分に与えられた務めだと、ほとんどの母親は知っている。

嘆きにも似た憤りを感じながら、できるだけその感情に目を背けて毎日を送ってきた。
直視すると胸をしめつけられ、だからといって自分には何もできないことを知らされるからだ。私にできることは、私に関わる子ども達が心豊かに暮らすためにできるだけのことをすること。そして、自分の子どもを愛すること。

親に命を奪われるかもしれないと、不安に思う子どもが一人としていてはならない。

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