48歳妻子持ちで、3回目の退職。

田舎の工業高校を中の下の成績で卒業、当時多かった情報系の専門学校を卒業し、地元で製造業の工場へ就職、絵に書いたような退屈な選択だが、当時は新卒で就職できたことで、それでも当時は順調な社会人デビューだったと思う。

しかし地元の会社で、絵に書いたような社会人の洗礼を浴びせられることになる、
他部署のパワハラ上司から、理不尽な長時間説教にそれを横目に逃げるように帰宅する自分の上司、仕事にいきたくなくて、朝布団から出られない、とりあえずフレックスが使えるので、10:30まではOK、でも結局布団からでれず、午前半休とって午後から出社、そんなのが会社勤めの初めの5年間だった。

当時はまだ鬱なんて言葉もそんなに知名度を得ていなかったので、単に5月病で片付けられ、自分の中でもそう片付けていたが、今思えば無知で無垢、そしていろいろ無自覚だった。

社会人8年目、小さな変化。
会社が、海外に工場を出し、それに伴って英語を話せる人員の採用を始める、
工業高校卒、専門校でパソコンかじった程度の自分には無縁の世界だった。

職場に派遣で英語要員が送り込まれるケースが増える中、小学校の同窓生がその中に居た、そいつは元々頭が良く有名大学を卒業したものの、働くのが嫌で、当時大学で斡旋していた海外の大学への留学プログラムで渡米していたとのこと、我が家との経済力の違いをこの時なんとなく悟り、同時に自分の家がどうしようもないくらいド安定の中流家庭だと知ることになる。

社会人9年目、相変わらず他部署上司のパワハラは消えず、3食たべては3食吐くような状況の中、30歳を迎え、巨大な絶望を味わうことになる。

30歳になって最初の給料明細、総支給が19万8000円、
手取りではない、総支給でこの金額である。
不景気を理由に、全社員の給料が1万円減額されたのが大きな理由。
30歳を超えて、20万円稼げない現実もなかなか厳しかったが、ダメージをより大きくした背景がある。

当時、会社は業務提案ブームで、PCが多少使えたため、年4回の改善提案大会では、毎回資料作成を任され、改善活動もそれなりに評価されていたので、業務効果は平均より高かったのである、そ・れ・な・の・に
給料総支給額19万8000円、繰り返すが手取りではない、少ない残業代も入ってコレ、と言うことで辞職ということをここで初めて考える。(遅すぎ)

ただ、この時、その英語を話す同窓生のおかげで、頭の中に語学留学というインプットがあった。
背中を押してほしかったので、その同窓生に、「英語留学しようと思うけど、どうかなと」とわざわざ聞いて「絶対行ったほうがいいって」と背中を押してもらい退職と語学留学を決心。

ただ仕事を辞めるにあたり、このあとハードルに出くわした、
これまたよく聞く「引き留め」である。
他部署上司からのパワハラ、今思えば鬱の初期症状、安い給料、これだけの材料を揃えて、一体何をどうしたら引き留めなんてできるのか、理解に苦しむ所なんだが、当時30のバカな若造は、この引き留めに自尊心がくすぐられたのか、なぜか退職時期を2ヶ月後ろ倒ししている、タイムマシンがあるならこの時に出向いて自分のケツ蹴飛ばしてやりたいところだが、人生にはこんな反省点があちこちに山積みになっている、多分この記事を読んでいる方も似たような記憶や思いがあるのではないだろうか。
ただコレは別に悪い側面だけではないと最近思うようになった、何故かというと、こう言うバカな過去の材料が、現在の自分を作ってくれているから。
間違い、失敗、後悔は多ければ多いほど、一発のダメージが大きければ大きいほど、その後の人生の軌道修正に貢献してくれていると思う。

つづく





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