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『東京23区最後の日』最終回

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5 そして最後の日


 遠くに、高い壁が見えてきた。あれが、東京23区を囲む壁か。思っていたよりも高いな。
 トオルは、立ち止まって汗を拭う。大きく息を吐くとまた歩き始めた。
 トオルは歩きながら、携帯を見た。日に日に、その回数が多くなっているのは自覚している。それでも、見ずにはいられない。
 ナオコとのタイムラインには、もう何日も前から、トオルのメッセージだけが並んでいる。ナオコからの返信は途絶えたままだ。
「お腹すいちゃったんだ。会いたいよ。でもね、もうダメみたい」
 それが最後のメッセージだ。
 トオルは、2週間前に地元の町を出発した。元々は、ナオコには知らせずに、サプライズで東京のワンルームマンションを訪ねるつもりだった。離れているとは言え、新幹線で3時間ほどだ。ところが、その新幹線が少し前から東京までは行っていない。東京に入る手前で、折り返し運転をしている。
 車で行くことも考えたが、東京は大渋滞との噂を聞いて諦めた。その頃には、東京の情報がテレビやネットではほとんど入らなくなっていた。東京の情報のほとんどは、噂、つまり口コミで地方の人々に伝わった。
 トオルは二輪免許は持っていない。かと言って、原付では心許ない。
 歩くことにした。会社には、1か月の休暇届を出した。1か月で戻れるとは思えなかったが、その時はその時だ。それに、会社は必ず認めてくれるという自信もあった。何せ、人手不足なのだ。
「必ず、帰ってきてくれよ」
 勤務する銀行の支店長自ら、肩を叩いて送り出してくれた。その支店長の目にうっすら涙さえ浮かんでいたのを、トオルは覚えている。
 そして、トオルは出発した。梅雨が明けて間もない、地元の町を。人気のない国道には、まだ紫陽花が揺れていた。その花を手のひらで撫でて歩きながらナオコに会うのは何か月ぶりだろうと考えた。成人の日には帰ると言っていて楽しみにしていたが、急なゼミの課題がとか言って、結局帰らなかった。
 その前の正月も戻らなかったな。だから、去年の夏以来になるのか。よし、待ってろよ、ナオコ。トオルは歩き続けた。大きめのリュックを背負い、麦わら帽をかぶって歩くトオルの影が、道路脇の畑に長く伸びていた。
 もちろん、ナオコの戻らないことが何を意味するのか、彼もわからないわけではない。東京がどんなところかも知っている。テレビやネットで流れてくる東京の若者。新宿や、渋谷や、原宿や、池袋や、どこでも東京の若者は明るく楽しそうだ。そして恋愛の形も違う。男女の付き合い方も違う。違わないとは誰も言わない。
 学校からの帰り道に一緒に帰っただけで次の日には、クラスどころか全生徒の注目を浴びている、そんな狭い地方の社会ではない。相手が男であろうが女であろうが、お構いなく楽しそうにはしゃぐ東京の若者。トオルから見れば、どこまでが友だちでどこからが恋人なのかわからない東京の若者。
 時々、東京の若者の闇として、いろんな問題が報道される。10代前半の子供たちが集まって、クスリに手を出したり。また、彼らをそんな世界に誘導する大人がいたり。
 しかし、それすらもトオルのような地方の若者にとっては、決して闇ではなく光に思えてくることがある。東京であればこその闇は、地方の若者にとっては自分を誘う光にしか見えない。東京かそれ以外か。
 そんな東京に憧れてナオコは地元を離れた。トオルとの繋がりだけは断つことなく。もしかすると、とトオルは歩きながら考えた。この2週間、歩き続けながら、様々なことを考えてきた。ナオコには、いかにも地元いるようなメッセージを送りながら。「サプライーズ」と笑いながらナオコの前に飛び出す時のことを考えながら。その時の、ナオコの一瞬彼の乱暴さにかっとして、次に目の前に彼のいることが驚くべきことであることに気がつき、怒りの中から笑顔が少しずつ現れて涙を流す、そんな姿を思い浮かべながら。彼は考え続けた。
 そして、トオルは今、彼女は恐らくそうだったのではないかという、悲しい結論に達しかけている。彼女は、自分を残して東京に行きたかったのだ。地元に恋人を残して、東京に来た女。でも、彼のことが忘れられない。心は地元と東京の間で揺れ動いている。地元を捨てて、そう彼女は捨ててと言うだろう、東京に出てきた理由は、多分のその都度違う理由なのだ。若くして人生の色々を経験してきた女、少し悲劇の影を引きずりながらも、懸命に東京で夢を探している女。そのためには、自分が必要だった。その影を象徴する人物として。伯父がいつか彼女のことをこう言っていた。「あの子は、お前が付き合うには少し進歩的だね」
 ナオコがいつからそんなことを考えていたのかは、わからない。もしかすると、付き合い始めた最初からだったのか。彼が地元で就職することを公言した高3の春に、2人は付き合い始めた。彼女は、その頃から自分が東京に行っても絶対に一緒についてきたりはしない相手を探していたのか。
 そんなことはないぞと打ち消す自分が、一歩ごとに弱くなっていく。
 本当なら、彼女に近づいているはずの距離が、逆に広がっていく。
 格差には気づいていた。進学できる者と、できない者。東京に行ける者と、行けない者。
 ナオコのように、父親が大きな農場の経営者で、母親も何となく垢抜けている、しかもひとりっ子なら、少々のわがままは許されるだろう。
 しかし、と思いかけて、トオルはやめた。人と比較するのはやめようと、決めていたのだ。母親は病気がちの体であったが無理をしながら、女手ひとつで彼と弟を育ててくれた。毎日、スーパーのレジで、時給が上がらないとぶつぶつ言いながらも、働いていた。中学生の頃は、クラスメートに「お前の母ちゃん、あのスーパーで見たぞ」と言われるのが恥ずかしくて、「もっと遠いところで働いてくれよ」なんて無理を言ったこともある。そんな母親に、進学なんて相談もできなかった。ほとんどが進学するクラスメートと比較して悩んだこともあったが、自分が就職すると公言してからは、気持ちが楽になった。そんな時だ、ナオコと付き合い始めたのは。
 それでもと、トオルは思った。最後のメッセージは間違いなく彼に助けを求めていた。
 いつの間にか、壁は目の前に迫っている。打ちっぱなしのコンクリートでできた壁を見上げて立ち止まる。高さは10メートル、いや、それ以上だろうか。青い空に聳え立つ壁。真夏の太陽が照りつける。
 気を取り直すと、彼は壁伝いに、1か所だけあると聞いている入口を探した。それから、1時間ほど歩き続けてようやく見つかった。それは、狭く、人ひとりがようやく通れるほどの、入り口というよりは、壁の裂け目に近い。その裂け目の向こうには、東京の人たちが、ゆっくり一歩一歩歩いているのが見える。
どの姿も、よそ見などせずに、視線を落とした姿勢で、前の人を追いかけるように、あるいは後ろの人に追い立てられるように、一歩ずつ、それは歩くと言うよりも、ただ足を交互に前に出している、そんな感じだった。
 23区は壁に囲まれて、その中は満員電車のようになっている、それくらいの情報は入っていた。しかし、これほどまでとは。せいぜい、祭りの夜の夜店が並んだ公園くらいだと想像していたのが。
 一瞬ためらいはしたが、何のためにここまできたのかを自分に言い聞かせた。
 早速体を滑り込ませようとした時、トオルはひとりの老婆が近付いて来るのに気がついた。赤いキャリングケースを重そうに引きずっている。
「どうぞ、お先に」
「そうですか、ありがとうございます」
 老婆はゆっくり体を壁の向こうに滑り込ませる。
「孫が心配でねえ」
 老婆の体が完全に壁の中に納まった時、壁の中の人の動きは止まってしまった。電車が急停車したように、老婆の前後の人は一瞬、上半身を前に傾けたが、すぐに元に戻り、そのまま一歩も動かなくなった。それまでは気づかなかったが、訪れた静寂がそれまでの足音の大きさを教えている。
 動けない老婆は、少し恥ずかしそうに、申し訳なさそうに壁の裂け目の向こうからトオルに頭を下げた。
 トオルは壁の中の、どのあたりかはわからないが、とにかく遠くに、赤ん坊の泣き声を聞いたような気がした。
 背後では、老婆が乗って来たのであろうタクシーの走り去る音が響いた。
 タクシーが遠ざかるにつれて、さらに深い静寂がトオルを包み込む。それでも、トオルは耳を澄ませていた。赤ん坊の泣き声がまた聞こえるのではないかと。


「15ピースパズルというのをご存知ですか」
「何だね」
「縦横4個ずつ、合計16個のピースが入る正方形のケースに、1から15までの数字の書かれた15個のピースをランダムに入れます。そして、それをひとマスずつ動かして、数字を順番に並び替えるというパズルです」
「それがどうした」
「いえね、そこに16個目のピースを入れると、もう全てのピースは動かせません」
「当たり前じゃないか」
「いつか、誰かが16個目のピースになるんですよ」


※本作品は完全なるフィクションであり、実際の東京23区は壁に囲まれてなどおらず、東京は首都として正常に機能しています。今のところは。


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