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「誰も見てないやん」と妻は言う〜「覇王の家」

僕は今年、「どうする家康」を見ている。
大河ドラマを続けて見るのは初めてだ。
それと並行して、日本史の勉強もしている。
そこで得たウンチクを、ドラマを見ながらついつい妻に傾けてしまう。
すると、妻はいつも言う。
「何でわかるん?誰も見てないやん。家康に会った人はおらんやろ」

いや、確かに。
何でわかるんやろ。
恐らく、いろいろ書かれたものを突き合わせて、信憑性のあるものを繋ぎ合わせていくようなことなのだろう。
そして、書かれたところに書かれているようなものがあるか、あったのか。
そんな気の遠くなるような作業の積み重ねで、歴史の「教科書」は出来上がっているのだろう。
でも、「何でわかるん?誰も見てないやん」
今現在でも、時の首相が何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、さっぱりわからないのに、そんな昔のことが、「何でわかるん?誰も見てないやん」
僕が「マー君という、それはそれは偉い王様がいました」そんなメモを残して、それが何百年か後に発見されたら、歴史の教科書に「マー君時代」が掲載されているかもしれない。
それはないか。

さて、先日、司馬遼太郎の「覇王の家」を読んだ。
徳川家康を描いた小説だ。

歴史小説というジャンルがある。
どんなジャンル分けをしようと、まずは小説なのだから楽しめればいい。
その上で、歴史小説と呼ばれるものは、歴史的事実、あるいは事実と思われる説を踏まえ、それを楽しめるフィクションにまとめ上げた小説なのだと思う。
そして、歴史の中の「何でわかるん?誰も見てないやん」という部分、そこをいかに描くかが作家の力量にかかってくるのではないだろうか。

例えば、今回の「どうする家康」でよく言われた、築山殿と家康との関係。
信長の指示により、家康が築山殿殺害を命じ、さらに息子の信康に自害を命じたことは事実なのだろう。
でも、「どうする家康」の作者も、プロデューサーも、視聴者も、有村架純も、誰も築山殿には会っていないのだ。
定説では、家康と築山殿は不仲であったとされている。
確かに、築山殿はそのような性格であったのだろう。
しかし、常にそうだっのか。
時には、築山殿も家康と楽しく語らうことがあったのではないか。
どんなに不機嫌な人でも、24時間、一年365日、絶対に笑わないという人はいないと僕は思っている。
ラグビーの笑わない男だって、実は笑うのだ。
定説になってはいないが、必ずそんなこともあったに違いない築山殿を、今回のドラマは描いたということだと、僕は勝手に解釈している。

そのように、人はわからない。
あの人は暗い人、明るい人と言っても、それは他人に見えているほんの一面にすぎない。
同じ人が、ある人には明るく見えて、別の人には暗く見えることだってある。
その人に近づけば近づくほど、ひとことでは言い表せなくなってくる。
嫌な奴だけど、いいところもある。
普段は暗いけど、なぜかこんな時には明るくなる。
ようわからんやつやなあ。
そんな、わからなくなるところまで近づいて家康を描いたのが、この「覇王の家」だ。

家康という、この気味わるいばかりに皮質の厚い、いわば非攻撃型の、かといってときにはたれよりもすさまじく足をあげて攻撃へ踏みこむという一筋や二筋の縄で理解できにくい質のややこしさをつくりあげたのは、ひとつにはむろん環境である。

家康というこの人間を作りあげているその冷徹な打算能力が、それとはべつにその内面のどこかにある狂気のために、きわめてまれながら、破れることがあるらしい。

さらにこの人物は、後世からみれば、結果として天下人になった。しかし若年からこの時期まで、この男は天下取りを目標にしてそこから逆算して自分の行動をきめたことは一度もなかったことだけはたしかであった。

かれは自衛のための構造計算を平素精緻にしておくくせに、それがいったんくずれると人より数倍狼狽え、しかもその彼を破滅的な行動に追いやる激情が、すぐ沈静してしまうのである。

このように、家康という人間のわからなさを随所で描いている。

時に、よくわからない人は天才として崇められることがある。
スティーブ・ジョブズやイーロン・マスクなどがその例だろう。
しかし、家康は天才ではない。

かれは不幸なほどに独創性薄くうまれついていた。つねに先人がやった事例を慎重に選択して模倣した。

このようにひとりの人間に近接するかと思えば、逆に、三河人、尾張人というくくりで、評価を下してもいる。
地味な三河人、派手な尾張人。
閉鎖的な三河人、外交的な尾張人。
農業中心の三河人、商業中心の尾張人。
三河人とは徳川軍団のこと、尾張人とは信長、のちには秀吉軍団のことだ。
そして、

三河衆はなるほど諸国には類のないほどに統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外来の風を警戒し、そういう外からのにおいをもつ者に対しては矮小な想像力をはたらかせて裏切者──というよりは魔物──といったふうな農民社会そのものの印象をもった。この集団が、のちにさまざまな風の吹きまわしで天下の権をにぎったとき、日本国そのものを三河的世界として観じ、外国との接触をおそれ、唐物を警戒し、切支丹を魔物と見、世界史的な大航海時代のなかにあって、外来文化のすべてを拒否するという怪奇としか言いようのない政治方針を打ちだしたのは、基底としてそういう心理構造が存在し、それによるものであった。

三河人である家康が日本を統一し、そこから260年もの間、三河人気質を根にもつ徳川家による支配が全国に及んだ。
260年だ。
三河人気質というものが、今の日本人のルーツになっていてもおかしくはない。
今の日本が鎖国をしてるわけではないが、ジャパン・アズ・ナンバーワンと持てはやされて、浮かれているうちに、いつの間にか世界から取り残されている今の状況を見ると、まだまだ三河人気質のマイナスの部分は抜け切っていないのではないか。

もしかするとそんなこともあるかもしれない、そう思わせてくれるのも歴史小説だ。

もちろん、〇〇気質でその全ての人を判断するのは間違っている。
〇〇気質を国民性、地域性と言ってもいいだろう。
国民性がそうだからと言って、その国の人をそれだけで好んだり、嫌ったりするは間違っている。
僕の経験から言うと、ひとりひとりに接すると、むしろそうではないことの方が多い。
しかし、その人たちが1人2人と集まっていくと、ひとつの偏った行動規範なり考え方なりが色濃くなってくるということも事実なのかもしれない。

それにしても、家康の印象は、信長や秀吉に比べて地味だ。
信長のようなカリスマ性も、秀吉のような野望もあまり感じられない。
それでも、最後に天下を治めのは家康だ。

家康と信長の違いをこのように書く。

信長のばあいは、その家来は純然たる使用人であり、極端にいえば信長がかれらを叩こうが殺そうが、かれらにあっては苦情の音を出しようがない。

一方、

ついでながら三河武士団は、尾張のような先進地帯とはちがい、なお中世の形態を色濃くのこしていた。中世武士団の棟梁(たとえば三河のばあいでは家康)というのは、豪族同盟の盟主であった

この盟主が、家康である。

つまりこういうことなのだろう。

家康を例えるならば、商店街の会長のようなものだ。
それぞれの商店主を束ねているが、彼が右向けと言っても全員が右を向くわけではない。
信長を例えるならば、大手デパートのオーナーだ。
彼に従わない売り場の責任者は、移動されられるか、即刻解雇される。
ついでに言うと、秀吉は、周辺の個人商店の反対を押し切ってできた巨大ショッピングモール、そんなところだ。

そんな中で、家康が勝ち残ったのはなぜか。

家康にとってもっとも大切だったものは人間の関係であり、このためにはどういう苦汁も飲みくだすというところがあった。

つまり、商店街の会長にとって、それぞれが利益を追求する商店主を束ねるには、日頃からの人間関係、風通しが大切だった。

この「覇王の家」は、小牧・長久手の戦いと、家康の最後が描かれている。
その間のことは別の小説で書いているからだろう。
著者はあとがきでも、家康をこう語る。

かれの生涯は独創というものがほとんどなかった。自分の才能を、かれほど信ずることを怖れた人物はめずらしく、しかもそのことがそのまま成功につながってしまったという例も、稀有である。そういう意味からいえば、なまなかな天才よりも、かれはよほど変な人間であったにちがいない。

歴史というものは偶然の積み重ねだ。
例えば、家康が幼少の頃に人質に出されていたという悲劇性が、後に家康を支えようとする三河人の忠誠心に繋がったとされている。
しかし、その時にはそんなことは誰も考えていなかった。
たまたま、家康が人質に出されていて、その家康が後に天下を取ったと言うことだ。
どんな偶然も、過ぎ去ってみれば必然になる。

でも、「何でわかるん?誰も見てないやん」
その通りだと思う。
だから、歴史は面白いのだ。

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