見栄と痩せ我慢
本日は、『見栄と痩せ我慢』の違いを考えてみます。部屋で晩御飯と晩酌を済ませ、パソコンに向かっていて、ふっと思い付いたテーマです。
見栄はマイナス、痩せ我慢はプラス
実は、二つのことばの意味の理解がふわっとしているので、最初に辞書的意味を確認しておきます。
「見栄」は、無理をして張るものじゃないと思います。単純に、見栄っ張りは嫌われます。つい、見栄を張ってしまう人は、相手に簡単に見透かされてしまいます。本人が自覚した上で張っている見栄は、見ている方からしてもまだ可愛げ気があり、understandableであるものの、何度も何度も繰り返してやっていると信頼を失うし、人間の小ささをより際立たせてしまいます。虚像を作り、実際以上に自分をよく見せようとしていると、自分自身も疲弊してしまいます。
一方の「痩せ我慢」には、私はむしろ+(プラス)の印象を持っています。自分が辛い時であっても、人前では平気な顔をして踏ん張る姿勢は必要だと思っています。その意識が、あと一歩の努力に繋がります。
見栄が引き起こす悲劇を避ける
とはいえ、私には見栄っ張りの気質があることも自覚していて、意識してその癖を出さないように努力して抑えていないと、ついつい顔を出してしまいます。気をつけてはいても、貶められたように感じたり、見下されたような態度を取られたと感じた時には、瞬間的に反発心が沸き起こります。
自分の治したい悪い癖は、知らないことを素直に知らないとは言えずに、知ったかぶりをしてしまうことです。この厄介な癖のせいで、何度か大きな失敗もしています。つまらない見栄を張ったがために、人の信頼を失ったかもなあ…… と思うこともあります。
自虐にならない程度に、謙虚な気持ちを保ち続けたいと思っています。見栄を張りたい気持ちがどうしても抑えられない時の対処法は、人と距離を取り、孤独な環境に身を置いて、気持ちを冷ますことです。どうしても収まらない時には、バーで不満を癒やしてもらいます。
痩せ我慢で過ごす
五十歩百歩のよいな気もする痩せ我慢を美徳だと感じるのは、日本人的な気もしています。似たようなニュアンスのことばに「武士は食わねど高楊枝」があります。辛い気持ちを表に出して、哀れを買うのは簡単ですが、そういう安易な態度は避けたいという想いは強くあります。
本音を言えば、これから先の将来は非常に不安です。人生を逃げ切ったつもりで、できるだけ心を平穏に保って粛々と暮らそうと言い聞かせているのは、単なる痩せ我慢です。これから先、何が起こるかはわかりません。地道にコツコツ徳を積むことで、自分の身の上に幸運が舞い降りるのを期待するスケベ心はなかなか捨てられません。
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