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自分の器で勝負する

本日のnoteでは『人間の器』について掘り下げてみようと思います。

器を大きくできるのか?

私は若い頃、【器の大きい人間】になりたいと思っていました。泰然自若、威厳があって、穏やかで、何事にもゆったりと構えていて、余裕と安心感を感じさせる人に憧れたのです。

人間の器が大きいと言われる人は、仕事ができるし、周囲から人望も集まるので、自然とリーダーになりやすい傾向があります。自己鍛錬で能力を磨き、経験を重ねていけば、自分自身の器はどんどん大きくなっていくものだ、と考えていました。

でも、人間の器って、先天的に備わっている以上に、努力によって大きくなっていくものなのでしょうか?

器は大きくならないし、幸せとは関係ない

現在の私の考えは、持って産まれた人間としての器の大小は人によってそんなには変わらないし、絶対的な器の容量(Capacity)もそう簡単には増減しない、というのものです。人間の器が後天的に大きくなるのは錯覚、という感覚です。

私の場合は、人間の器を大きくしよう、立派になろうともがくことが、必ずしも自分の幸福感とは繋がっていかない、という実感が大きくなっていきました。

無闇に人間の器を広げることを目指すのではなく、自分の特性を理解して、自分が心地良いと感じられる立ち位置に身を置く為に持てる器は使うべきだ、という結論に至っています。

自分が気持ち良く真っ当に生きていくために人間としての器の大小は大して関係ない、とすら思います。私が目指した「人間の器を大きくしたい」という目標は、他人から評価されたい、称賛を浴びたいという願望に過ぎず、偽善的で、足るを知るという謙虚な精神が不足していたように思うのです。

リーダーの器ではなかった それが現実

そう考えるようになったのは、~そう考えるのはとても辛いし、残念なのですが~ 私にはリーダーの資質が欠けていると悟ったからです。

優れたリーダーには大局観と従う人達を統率する強さ、抱擁する気配りが欠かせません。私はそのいずれの資質も十分には持ち合わせていないことに気付いたのです。

私は人の上に立つ優れたリーダーにはなれそうもないという現実に気付いただけではなく、リーダー的立場の人間になりたい、とも思っていないことにも気付きました。

リーダーの責任を背負うという強い意思と覚悟が決定的に不足しているのです。私は尊敬できるリーダーのフォロワー的な立場か、リーダーを補佐するサポーター的な立場である時の方が、自由に行動でき、持っている能力を発揮できるような気がしています。

私もこれまでの会社員人生の中で小さな組織の長という立場を経験しました。その立場の時は、職制上の義務として管理職の役割を演じましたし、下についてくれた人達も良質な人材ばかりだったのでなんとか及第点は取れていたと思いますが、優れたリーダーだったとは思えません。

苦手なこと、不向きなことを経験するのは勉強にはなったものの、本当の意味で自分の求めている幸福感からは遠かったように思います。これは経験したからこそ思い知らされた現実でもあります。

今持っている器を使い切ることに徹する

今の私の課題は、限られた自分の器の中に何を溜め、どう効果的に使うか、ということです。欲張って器を広げたり、容量一杯まで注ぎ込むことに注力するのではなく、限られた器が澱まぬよう常に洗浄してフレッシュな状態にしておき、努力する方向性を間違わないようにすることの方が大切だと思っています。

ないものねだりをするよりも、地に足をつけて、今の能力でやれる最良のことに集中して取り組む方がいいのです。結果的にブレークスルーして、先にいける可能性もあるかもしれません。今ある自分の器を使い切ることに徹することが重要だと思います。

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