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息子との一日

本日は、最愛の息子、溺愛している息子とガッツリと過ごした一日でした。感謝です。息子の体力向上と反比例するように、付き合う私の身体には、ダメージが大きくなります。心地よい疲れを感じながら、一日を振り返ってみます。

息子から受け取る英気

昨夜は、自宅の小さいバスタブに一緒に浸かり、同じ時間を過ごしました。話しかけるのは専ら私で、自分が要求する以外のことで息子が私に声をかけることはありません。私が、お気に入りの『明日があるさ』のフレーズを何度も鼻歌していても、まあ無反応のままです。それは、過去何度も繰り返されてきたいつもの光景です。

それでいいのです。親の発することばなんて、いつでも時代遅れで邪魔なものですから、素直に聞く必要はありません。理解しようと努力する必要もありません。ただ子どもの頃、こうして何度か父と過ごした時間があったなあ、と記憶の片隅にでも残ってくれていさえすれば、という想いです。この時間に恩恵を受けているのは、間違いなく私なのです。

時間を共有することが大切

親子関係は、時間の長さではなく、濃密さである、と言う人もいます。仕事で不在がちだった父親、幼い頃に死別してしまった父親との数少ない思い出を大切にしている人も大勢います。ただ、私は親として、触れ合った時間の量で、息子に気持ちを伝えたいと願っています。

質より量.... 私と息子の関係は、特殊です。ことばでの意思疎通はままならないけれど、息子の表情を読み、行動を予測して、興味と関心がどこに向いているのか一生懸命に探る努力を厭いません。私が、そんな報われない関係に心を砕く相手は、この世で息子ただひとりだけです。息子のような態度を取るのが、赤の他人であれば、徹底的に無視して、関わらないようにすることは間違いありません。血の繋がりとは無条件であり、理屈や常識では推し量れないものだ、と不思議に思います。

2つ従い、1つ従わせる

とはいえ、息子には、生きていく中で受容すべき制約を覚えさせ、苦痛を我慢する経験をさせることが大切です。だから、息子の要求に2つ応えたら、1つは我慢させる、あるいは、私の要求に従わせることを意識しています。

息子には、この世で無条件に自分に愛を注いでくれるのは、私と妻ぐらいであり、社会に身を置けば、自分の我儘を通し、無尽蔵に要求することはできないことを、本能的に知らしめる必要もあるという自覚もあります。

嫌なことは避けてもいいが、避け続けない

これは、私自身の身の処し方でも参考にしています。息子を育てる中で学んだことは、嫌なことを避け、好きなことだけをやり続けていては、人間として必ず破綻する、ということです。だから、嫌なことに取り組む経験は、時に買ってでもしないといけない、と身に染みて思うのです。

一時的に避けるのは、まあいいのです。ただ永久に避けてしまってはいけないのだと思います。避け続けることであらゆることへの耐性が落ち、好きなことも続けられなくなるように思うのです。

またその逆もあり、「嫌だ」という本能の声に耳を傾けず、自分を誤魔化して、本当は嫌でたまらないことを流されるままに続けるのも身体的・精神的に良くない気がしています。

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