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50年の逃亡人生を想像してみる

本日は、私が最近関心を持った時事ネタから考えてみます。

50年近い逃亡生活

私が関心を持ったのは、末期の胃癌患者として神奈川県の病院に入院していた男が、突然自分は1970年代に連続爆弾テロ事件を起こした東アジア反日武装戦線のメンバーの一人で指名手配中の容疑者、桐島聡であると名乗った、というニュースでした。

男は病床で警察の取り調べを受けていたものの、名乗り出た4日後の1月29日朝に亡くなってしまいました。現時点でこの男が、桐島容疑者本人であると完全に特定された訳ではないようですが、報道では、ほぼ本人で間違いないだろうと言われています。

指名手配されてから実に50年近くも逃亡生活を送っていたことに驚きました。報道によれば、「内田洋」という偽名を使い、神奈川県藤沢市内の工務店で長年住み込みで働きながら、完全に引き篭もることもなく、社会生活も営みながら暮らしていたようです。

爆弾テロの時代

東アジア反日武装戦線を名乗るグループによって三菱重工爆破事件が起こったのは1974年8月30日のことです。その時私はまだ6歳でしたが、うっすらとテレビのニュースで観ていた記憶があります。それから1975年にかけて、全国各地で大企業を狙った爆弾テロが相次ぎ、日本中の人々を震撼させました。なかなかに物騒な時代だったのです。

報道を見ていると、この三菱重工爆破事件がクローズアップされていますが、桐島容疑者はこの事件には関わっておらず、別の爆破事件に関与した容疑で指名手配されていました。東アジア反日武装戦線には、「狼」「大地の牙」「さそり」のグループがあり、三菱重工爆破事件を計画・実行したのは、大道寺将司容疑者(2017年に獄中死)ら「狼」のグループであり、広島県出身、当時20歳で明治学院大学の学生だった桐島容疑者は「さそり」に所属していたとされます。

その間何を考えていたのだろう

桐島容疑者は、青年期に犯した罪により、その後の約50年間はひたすら身を隠して生きる日々を送ったことになります。逃亡中は一体何を考えて過ごしていたのだろう…… と思いました。それは私には想像するのが難しいことでした。逃亡生活を助ける協力者がいた可能性もありますが、身元が特定される可能性がある行為は危険でできません。運転免許は取れず、銀行口座も開けず、クレジットカードも作れない、ことになります。それは、社会の中でほぼ存在を認知されない生き方となります。音楽が好きで、ギターを弾いていた、馴染みの居酒屋で酒を飲んでいた、という断片的な情報はあるようです。

桐島容疑者の容疑は、爆発物取締罰則違反であり、殺傷事件を起こした訳ではありません。もしも逮捕されていれば、懲役刑には処せられたでしょうが、罪を償えば別の人生もあり得た筈です。

自分でも理由はわかりませんが、なぜか興味を惹かれます。

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