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【真里谷式】「なんでもないもの」を恐れる

義務で更新された記事ほどつまらないものはない。

そう思うわけです。


しかし、よく考えてみると不思議なんですよね。

フィクションの世界において、義務というものは往々にして「崇高」の領域に達しています。

「義務を果たせ」というセリフが、輝きを伴って彩られるのです。


また、ノンフィクションにおいても、時として義務は美しさすらまとうことがあるでしょう。

マレー沖海戦にて、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と運命を共にしたフィリップス提督は、脱出の勧めに「No, thank you.」と答えたと伝わります。

実に貴族的で騎士的な義務の果たし方です。

無論、これは死を美化する価値観のフィルタが掛かっていることを否定しません。


してみると、義務にも「能動的な義務」と「受動的な義務」があるのだと改めて感じます。

日本企業がとりわけ生産性の低さを指摘されるのは、「受動的な義務」が必然的に発生しやすい構造にあるからではないでしょうか。

すなわち、「被雇用者の権益の強さ」と「ジェネラリストへの過剰な憧憬」です。


私は雇用の流動化には賛成です。

ただし、竹中平蔵氏の唱えるけったくそ悪い未来のビジョンには、後ろ足で砂をかけてやります。

本質的意味において、人間はもっと柔軟で楽な仕事を追求すべきであり、結果的に適正なサービスと生活のあり方へと帰着することを望んでいます。

結果として生まれる社会的利益は、高福祉の維持に寄与するでしょう。


すなわち、私のような障害者も生きていけるわけです。

くたばれ優生理論。


もしも「優れた」何かを生み出したいのなら、「自我」と「利他」を確固たるものにするところから始めるべきでしょう。

受動的な義務から生み出された生成品は、必ずや精神の中の活力を減退させると信じています。

生み出す者も生み出した成果物に触れた者も、等しく衰えるのです。

それは毒にも薬にもならない、「なんでもないもの」です。


私たちの人生は、いかにこの「なんでもないもの」に侵食されずに進んでいくか……。

それがひとつの命題と言えるのではないでしょうか。


「何かになりたい」のであれば、間違いなく利他的な自我を芽生えさせるべきです。

結果として、利己へとつながる。

ヒトの営みは、また生物のシステムは、そのようにできていると信仰しています。