食べることが難しいなんて。
食べることを難しいと思ったことなんて一度もなかった。そもそも食べるなんて日常的に当たり前なことを、難しいとか簡単とか、意識したことすらなかった。なのになぜこんなにも難しいのだろう。
この時代、日本に生きる女性の中にはそう思ったことがある人は少なくないのではないか。現在35歳の私は高校2年生の頃から急に食べるのが下手になった。
内科的病のそれではない。見かけ上は極めて健康な類の人間が、食べるという日常的行為を無意識から意識下に置いたとたん、自らわざわざ下手っぴに退化していくのである。そもそも上手も下手もないのだが。
摂食障害という言葉を聞くようになって久しい。ダイエットをきっかけに陥る若者も多いようだ。そこには深い闇がある。ダイエットなんぞ一口に言うが一人ひとりに違う要因があると私は確信している。
なぜなら私自身がその経験をしたからだ。病院にかかったことはないが、ダイエットを意識した10代後半から約20年間、"食べ下手"だった。食べるは毎日やってきて、何度も繰り返す本来とても幸せなこの行為だ。なのにそれが普通にできないとはなんと不幸だったことか。美味しい、嬉しい、楽しいね。そんな幸せな幾多のチャンスを20年も見す見す逃してきた。その苦しみを誰よりも知るのは本人に他ならない。
若い日本人女性なら、ダイエットはしたことがない人の方が少ないかもしれない。現代的な食習慣が沢山のダイエット情報を巷に溢れさせ、老若男女だれにだって身近でありいつでも意識に触れてくる。そんな危うい存在がダイエットなのだ。
それには成功失敗が付きものだが、人によって、あるいは時によって、ものによって様々でありその如何は問題ではない。ここで重大なのは、食べることを過剰に意識した結果、食べることが気持ちよく心地よくできなくなってしまうことを考えた時、ダイエットを悪者にすると沼にハマってしまうということだ。
つまり、ダイエットは見せかけなのだ。どうしてダイエットしたのか。どうして太った(と思った)のか。どうして可愛くなりたいと思ったのか。どうして食べたのか。こんな根本的な問いをすることさえときに難しい。でも、こんな根本的な問いが、食べること難民の本質を突く。
私の場合、その答えは、「寂しい、悲しい」という心の叫びだった。
寂しくて悲しくて、食べるのが下手になる。一見何ら因果関係の見い出せない両者に、実に密接な繋がりがあることがわかったのは、私自身がその「寂しい、悲しい」を正面から見つめ受け入れ続けていった結果だ。
食べることが難しい自分が情けなくて、恥ずかしくて、苦しくて。もう一生食べたくないと思ったこともあった。万年自己嫌悪だった私が今では食べるのが得意になっている。こんな私になれたのは、自分への愛と周りの愛に気付いたからかもしれない。
愛なんて急に漠然とした話になってしまうが、でも、端的に言ってしまえば本当にそれだけだ。ただただ、今、食べることが難しい人は安心してほしい。私のように変わった人が確かにここにいる。
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