「鬼滅の刃」と、置き去りにされた子どもたち
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「鬼滅の刃」と、置き去りにされた子どもたち

Marisa Okada

※きわめて個人的な感想です。ネタバレ(最終回について触れています)に溢れていますので、「鬼滅の刃」を未読の方には非推奨です。ぜひ原作を読了されてからご覧ください。また、参考文献から、残酷な描写を引用していますのでその点もご留意ください。
※「鬼滅」と「日本残酷物語」を関連づけたものについては、自分で調べた範囲では見つけられなかったのですが、もし既出のものがあればぜひご教示ください。間違いのご指摘も是非。

「鬼滅」と『日本残酷物語』

『鬼滅の刃』(以下、「鬼滅」)を読了した。「言葉」にすごく力があるなとか、伏線が回収されるスピードがすごいとか、煉獄さんと炭治郎のエピソードもっと長くてもいいんじゃないかとか、宇随さんは前髪下ろしてるほうがイイとか、いろいろ思うことはたくさんあるものの、印象に残ったのは登場人物の背負う運命の過酷さである。「鬼滅」は、家族の絆や愛情が物語の軸になっているが、同時に家族にまつわる悲劇が繰り返し描かれている。以下は主要な人物について過去をまとめてみたものである。

捨て子や、虐待を受けた人物が少なくない。炭治郎の鬼殺隊の同期の剣士は5人中3人が幼少期に捨て子や孤児になっていて、入隊時点では炭治郎も玄弥も両親を亡くしている。柱も鬼も、悲しい背景をもつ者たちが多い。今のようなセーフティーネットのない時代、後ろ盾を失った子どもたちは身一つで社会に置き去りにされ、ある者は鬼になり、ある者は鬼狩りになっていくのである。

「鬼滅」を読み進むうちに、『日本残酷物語』(平凡社)が頭に浮かんで離れなくなってきた。
『日本残酷物語』は、民俗学者の宮本常一が中心となって、日本の民衆史をまとめた書籍で、1959年に第一部が刊行されている。近世から近代までの歴史をまとめた第一部から第五部までと、「現代編」の二巻で構成される。
近世のものは資料や伝承によるものだが、近代以降は筆者が直接聞き取った記述も収録されている。「残酷」というショッキングなタイトルは、敗戦から復興を遂げ、高度成長のとば口に立っていた日本で大きな話題を呼んだ。安保闘争が激しかった頃でもある。半年で二十刷を超えた第一部、「貧しき人々のむれ」の巻頭にある「刊行のことば」は、こんな書き出しで始まる。

これは流砂のごとく日本の最底辺にうずもれた人々の物語である。
自然の奇蹟に見離され、体制の幸福にあずかることを知らぬ民衆の生活の記録であり、異常な速度と巨大な社会機構のかもしだす現代の狂熱のさ中では、生きながら化石として抹殺されるほかない小さき者の歴史である。
(略)
民衆自身の生活にとって、納得しがたいことがいかに多いか、しかもそれらがいかに忘れ去られてゆくか―これが『日本残酷物語』をつらぬく主題旋律である。
つつましい炉の炎を確保するために地獄に近い地底に降りてゆかねばならぬ小さき者の後ろ姿ほど、納得しがたい物語を背負ったものがあるだろうか。

第一部の章の名前を拾ってみると、第一章は「追いつめられた人々」と題し、貧しさゆえに略奪を行い生き延びる民衆の姿や、乞食の生活を記している。
第二章「病める大地」は、繰り返し襲う飢饉、そして風土病や感染症の恐怖を描く。
第三章「弱き者の世界」は働けなくなると山に捨てられる老人、間引きと堕胎、捨て子、人身売買などが描かれる。

炭焼きの悲劇

「鬼滅」の時代設定は大正時代で、アニメでは、炭治郎が浅草を訪れた際に凌雲閣(いわゆる浅草十二階)が描かれている。凌雲閣は大正12年の関東大震災で倒壊しているので、時代設定はそれより前であることがうかがえる。よって、登場人物のほとんどは明治生まれである。(『日本残酷物語』の筆者、宮本常一は明治40年生まれだから、炭治郎の少しあとくらいに生まれている。)
「鬼滅」では、炭治郎は炭焼きを営む一家の長男で、鬼に母や兄弟たちを殺害され、唯一生き残った妹は鬼に変貌してしまう。
一方、「貧しき人々のむれ」の序文には、“明治三十年前後のことである”として、以下のような悲劇が語られている。

「世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子どもを二人まで、鉞(まさかり)で斫り殺したことがあった。(略)
なんとしても炭は売れず、なんど里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。
(略)
二人の子どもがその日当りのところにしゃがんで、しきりになにかしているので、傍へいって見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いていた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の枕木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それでじぶんは死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。」
『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』

この文章は、もともとは柳田国男の『山の人生』に収められた一文であるという。
「鬼滅」第一話のタイトルは奇しくも「残酷」であるが、『日本残酷物語』には、同時代の話として、フィクションに勝るとも劣らない残酷なエピソードが綴られているのである。

飢えの果てに鬼になる

「鬼滅」では鬼が人を襲って食うが、江戸時代の飢饉のおりには現実として人間も人を食べて飢えを凌いだという記録が多くみられる。
「貧しき人々のむれ」第二章に、天明の大飢饉(江戸時代の飢饉)の記述がある。
八戸藩の俳人、上野家文の書いた「天明卯辰簗」には、人肉食のむごい話がおびただしく出ているという。嫁いだ娘が実家を訪れると、あまりの飢えに耐え切れず、父親が息子の首をはね、自分も自害し果てていた。娘は、一度は悲しみに暮れるが、やがてもったいないという理由で父と弟の死骸を食べてしまう。

「それから女は人肉を食うことをおぼえたという。じぶんの夫をだまし殺し、じぶんの子も鎌で一打ちに殺し、食べられるところは全部食べた。
(略)
夜な夜な生きている子どもまで追いもとめるようになったので、近所のものが相談して、ついに殺すことに決められた。
しかし凶年の百姓五、六人がかりでは、女は頑健でとても手におえない。
棒や鎌を持って追いたてたところ山奥へかくれ、今度はたき木取りの者を殺して食うようになった。
そこで狩人にたのんで猟犬で狩りだし、ようやく鉄砲で射殺したという」
『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』より

怖い。非常に怖い。夫も子も殺して食べるとか、5、6人で手に負えないとか、まさに「鬼滅」の鬼そのものである。
天明の飢饉に限らず、極限の飢えがこうして人間の尊厳を奪うことは、数々の歴史が証明している。

奪われたら奪ってもいい

宮本常一とともに『日本残酷物語』を編んだ編集者、谷川健一は、その前に『風土記日本』という本を編纂している。『風土記日本』も、宮本常一が中心となって、日本の農村部の暮らしをまとめた本であり、そこでは貧しい中でも希望を持ち、日々の暮らしを少しずつ改良していった民衆の姿を描いていた。一方で、『日本残酷物語』では、その希望が打ち砕かれ、追い詰められた庶民の姿を描こうとしていたという。

「収奪されてどん底に追い詰められたら、逆に収奪してもかまわないのではないか。向こうが殺しに来ればこっちも殺していい。こういう庶民の考えかたを底流にもつような企画を始めたい、と谷川は考えていた」
『『日本残酷物語』を読む』畑中章宏 平凡社新書 より

「鬼滅」には、鬼の始祖である鬼無辻無惨が指揮する、「十二鬼月」が出てくるが、そのうち上弦の陸(ろく)である妓夫太郎・堕姫の二人は、人間だったころは、江戸時代の遊郭の最下層で生まれた兄と妹であった。母親は梅毒で死に、兄の妓夫太郎は取り立て屋の仕事をしながら妹を育てる。しかし妹は、客の侍の目を突いて失明させたため、兄のいない間に罰として生きたまま焼かれる。絶望し怒り狂った兄は、鎌で女郎屋のおかみと侍を切り殺し、妹ともに鬼になるのである。
作中、炭治郎に首を斬られ、妹とともに息絶える間際の妓夫太郎のモノローグが語られるシーンがある。

「鬼になったことに後悔はねぇ 俺は何度生まれ変わっても必ず鬼になる」
「幸せそうな他人を許さない 必ず奪って取り立てる妓夫太郎になる」

この姿が、谷川が描こうとした、「収奪されてどん底に追い詰められたら、逆に収奪してもかまわない」という、鬼となった庶民の姿と重なって見えたのである。

堕胎、子殺し、そして人買い

そして捨て子についてである。
炭治郎とともに鬼に立ち向かう同輩の剣士、我妻善逸は捨て子、栗花落カナヲは凄惨な虐待を受け、人買いに売られた過去を持つ。
『日本残酷物語』では、捨て子、人身売買の時代の前段階として、堕胎と間引き(子殺し)についても記述している。古くは戦国時代に渡来したキリシタン宣教師が書物に記している。

日本では貧苦のため、もしくは古来のならわし、悪魔のすすめによって、生まれた子どものうち養育することのできるもののみを育てることが通常であるゆえ、堕胎は無数であり、生まれたうえ殺される幼児もまた無数である」と、一五八五年(天正十三年)の『耶蘇会日本年報』はしるしている。
『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』より

江戸時代においても堕胎、子殺しは続いた。農民たちは先祖代々の土地から離れられず、領主の厳しい収奪を受け、度重なる飢饉はわずかな余力さえも奪い去っていった。
「当時の農民たちの従事する農業の生産力は、それ以上の人口増加にたえられぬほど低かったのである」と述べられている。
明治時代になると、間引きは殺人罪として取り締まられるようになったが、幼くして病気で死ぬ子どもは依然として多かった。
また、江戸時代からおびただしい数の捨て子がいたというが、明治に入ってもこれが続いたという。全国の十三歳未満の捨て子は、わかっているものだけで明治20年が5777人、25年が4958人、30年が3740人、35年が2432人に上っていると書いてある。
「鬼滅」の我妻善逸もこの一人だったかもしれない。
その一方で、親たちは、子を殺さず、育てて売るようにもなる。

明治の中ごろまで、福島県平付近の村々へは、山形県の最上地方から、人買い婆さんが毎年やってきた。
(略)
土地を手ばなすことは、百姓にとって死を意味する。そこで娘が一家のギセイとなって売られていった。
(略)
男の子でも女の子でも、十二、三歳になった子どもは買っていった。女の子のほうが値段がよくて、そのころ十二歳の女児が五円、六円で売買されていた。
(略)
このようにして、ちょうど馬喰が馬をひいてくるように、八、九歳から、十二、三歳くらいまでの売られた少年少女を連れまわし、買い手をもとめて歩いた。ときにはにげられぬように、麻縄で子どもたちを数珠つなぎにして、ひっぱってもきた。
『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』より

「鬼滅」では、カナヲが胡蝶しのぶと出会うシーンで、カナヲは人買いに縄で縛られ、連れ歩かれているところをしのぶに助けられている。明治時代には、カナヲのような少女が実際にいたのだろう。

自己犠牲が尊ばれる世界

「鬼滅」では、鬼と人間を分かつものは何か、という問いが繰り返し描かれる。その答えは、直截的に言ってしまえば「利他的に生きられるかどうか」だと思う。おのれの欲を満たすためならなにものも一顧だにしない鬼の姿と、人命を守るためならみずからの犠牲も厭わない鬼殺隊の剣士たちが対比され描かれている。
たとえば映画化された「無限列車編」で、炎柱・煉獄杏寿郎は、「お前も鬼にならないか」と鬼に誘われるが、それを断り、人間として、炭治郎たちを守りきって死んでいく。
作者がどのような意図でこの問いを作品に刻み続けたかはわからないが、貧しさと死の恐怖が支配する時代に、利他的に生きることは非常に難しい。だからこそ、それができる人間の気高さ、尊さは、闇の中で光り輝く、ということを描こうとしたのではないか。

この点に関しては、『花さき山』という絵本を想起させる。この本でも、「利他的に生きる」「自己犠牲を厭わない」ことが称揚されている。
『花さき山』は、1969年に出版された絵本である。私自身も幼少期に読んだ記憶があり、出産祝いにも頂いた。手元にある本では第147刷となっていて、長く読み継がれているベストセラー絵本である。

物語は、貧しい農家の少女が山菜取りに出かけて山に迷い込み、山姥と出会うところから始まる。そこには見たこともない美しい花が一面に咲いている。山姥が言うには、その花はふもとの村の人間が優しいことをすると咲くのだ。山姥はこう語る。

「この 花さき山 いちめんの花は、
みんな こうして さいたんだ。
つらいのを しんぼうして、
じぶんのことより ひとのことを おもって
なみだを いっぱい ためて しんぼうすると、
その やさしさと、けなげさが、
こうして 花になって、さきだすのだ。」
『花さき山』斎藤隆介・滝平二郎 岩崎書店 より

さらには、村を守るため、体を張って高波を防ぎ、おぼれ死んだ男や、山火事にかぶさって、焼け死んだ男の話が続く。

「やさしいことを すれば 花がさく。
 いのちを かけて すれば 山が うまれる。
 うそでは ない、 ほんとうの ことだ・・・・・・。」
『花さき山』斎藤隆介・滝平二郎 岩崎書店 より

『日本残酷物語(第一部・貧しい人々のむれ)』でも、『花さき山』でも、前提となっているのは、富が限られた、貧しい世界である。この世界では、富はごくわずかで、全員に行きわたるにはあまりにも少なく、貧しいものには手が届かない。誰かが満たされれば、誰かが飢える。
長い間、民衆には、富自体を急激に増やすことはできなかった。
だから、老いては山に捨てられ、幼な子は闇に葬られたり、売られたりする。運よく生き延びたものも、じっと我慢をし、あるいは“鬼”となって奪わなければ生きられなかった。
『日本残酷物語』ではそれをありのままの民衆の姿として記述し、『花さき山』では、貧しさの中での自己犠牲を賛美する。

しかし、現代日本社会ではその前提が変化している。
戦後の高度成長があり、民主主義の発展のなかで、社会保障制度が整備されていった。
富は再分配されるものになり、何よりも富自体が急激に増えた。幸せになるために、自己犠牲ではなく、全体の富を増やすことが是とされる時代に変化している。
(無論、いまだ社会は相対的貧困など多くの問題を抱えているが、この文章の主題ではないのでここでは触れない。)

もう自分を犠牲にしなくていい

「鬼滅」の最終話は、現代に生きる炭治郎たちの子孫の姿を描いている。15歳の「現代の炭治郎」は、弱い者を守るために戦って・・・・はいない。家族を支えるために、雪の中、炭を売りに行ってもいない。非常に平和に朝寝坊し、遅刻を避けるため学校まで全力ダッシュしている。子どもらしく、自分のことしかしていない。
作者自身による唐突な現パロの最終回には賛否両論あるようだが、私は逆に、これは「必ず描かれなければならなかったもの」ではないかと思った。
“鬼”のいない世界に生きる子どもたち―読者は、炭治郎のように、自分を犠牲にしなくていいんだよ、と語られているような気がしたのである。

「鬼滅」の最終回の前の回では、ラストにモノローグが挿入されている。

”光り輝く未来の夢を見る”
”大切な人が笑顔で天寿を全うするその日まで幸せに暮らせるよう
決してその命が理不尽に脅かされることがないよう願う”

誰のものかは明示されていないが、おそらく鬼と戦った人々全員の思いだと思う。
「鬼滅」は完全なるフィクションではあるが、『日本残酷物語』と重ね合わせて読むとき、過去にはこの願いを抱きながら叶わなかった多くの“小さき者“がいたことに、思いを致さずにいられない。

なお、延々とこんな話をしておきながらアレですが、「鬼滅」の魅力はもちろん他にもたくさんあり、シリアスなストーリーの一方でキャラクターの掛け合いがギャグマンガとしても楽しめることを最後に申し添えておく。

参考文献:
『日本残酷物語1貧しき人々のむれ』宮本常一・山本周五郎・楫西光速・山代巴=監修
平凡社ライブラリー
『『日本残酷物語』を読む』畑中章宏 平凡社新書
『花さき山』斎藤隆介・滝平二郎 岩崎書店
『鬼滅の刃』1巻~23巻 吾峠呼世晴 集英社ジャンプコミックス
『鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録』 吾峠呼世晴 集英社ジャンプコミックス

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Marisa Okada
2005〜2019年、テレビの記者。今は現場を離れているので、文章を書くための場としてnoteを書いています。