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自分を責める気持ちとのつきあいかた と「いき」の構造

自分はなんて無力で無能なんだろう、と幾度となく感じてきました。会社員の頃も、経営者になっても、プライベートでも、もっと知性があれば、もっと人格者であれば、もっと幸せにできる人を増やせるし、誰かを不幸にせずにすむのに、と。

自分を責める気持ちが、もっとがんばらなきゃという気持ちにつながって、良い結果になることもある。でも折に触れ、どうしようもないほど自分の無力が憎くて、全てを否定して逃げ出したくなることもあります。

そういうときは、朝も起き上がれず、勝手に涙が出てきて、何もできなくなったりします。自分への絶望は生きることへの絶望でもあり、全ての意味を見失うことでもある。とても苦しいことです。

そんなときにいただいたメッセージにとても励まされたことがあります。自責的になって「自分はまだまだ未熟だからがんばらないと」と言う私に対して「あなたの力が発揮できるよう、どんな環境をつくったらいいか考えたいね」といった内容でした。

なんてことのなさそうなこのことばに救われたのは、この苦しみが自分への執着だということに気づけたからです。自分の未熟さこそが悪と捉えていたところから、「目標に向かって自分が力を発揮できる構造づくりをすればいい」と、ふと解き放たれた感じがしました。

その人の言葉やあり方を見ながら、九鬼周造の「『いき』の構造」を思い出しました。「いき」という日本人の美しい心性について論じた本です。

「いき」というあり方。イメージするのは、寅さんのような明るい、開放的な生き方でしょうか。大辞林によれば「いき」は「気性・態度・身なりがあか抜けしていて、自然な色気の感じられる・こと(さま)」。だそうです。

九鬼周造は「いき」の構成要素を「媚態」「諦め」「意気地」だと言っています。

日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か。「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である ー「いき」の構造

「媚態」とは、対象とのつながりや一体化を求める自己のあり方
「諦め」は執着から離れて未練のない態度
「意気地」は他者に対して自己を保つ誇り

対象への熱烈なエロス、仏教的な諦めの態度、武士道的な意気地の態度。これが日本人的な「美しさ」でもある、といったところでしょうか。それにしても「<意気地>の自由に生きる」ってなんて素敵な言葉なんだろう。たしかに、意気地を持つことにおいて人は自由です。

自分を責めてしまうとき、そこには過剰なまでの対象への執着とともに、自己と対象を一体化させようとする力が働いています。そして対象に近づくことができない原因は自分のありかたゆえと苦しむ。つまり「媚態」に支配されている状態です。

けれど、本当に対象を愛するのであれば、対象のためにできることを考えるべきなのではないか。一体化できないことを嘆くのは、自分への執着ゆえでもあり、自己愛でもあります。

自分と愛すべき対象は異なる存在であることを認め、諦めながらも意気地を持って、自由に、適切な距離を保ちながら前に進んでいく。そこに「自分を責める」余地はありません。

そんな姿勢で他者と、仕事と、夢と向き合っていけたら、悲壮感のない「自然な色気」のある人でいられるのかもしれない。そしてそんな「いき」なひとのまわりに、ひとは集まってくるのかもしれません。

そんな人でありたいと願うとともに、「そんなあり方はどうですか」というひとつの提案が、自分を責めて苦しんでいる人たちに届くといいなぁ、と考えたりしています。


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