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置いて、かれた、言葉-舞台「フェイクスピア」観劇レポ





iPhoneで のだまっぷ、と打つと、野田地図、と変換される。iPhoneにも登録された、野田地図。

みてきました。


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以下ネタバレ含みますのでご注意ください。

というか舞台見た人にしかこのレポ伝わらないかもしれません。すいません。


ストーリー説明が難しい舞台No. 1

なので、野田秀樹さんの言葉を借りよう。

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うん、ストーリーについては何もわからないね!

ちなみにこの文字、本当に野田さん!て感じがするんです。野田秀樹の喋っている言葉を文字にすると本当にこの文字だなと思う。書く文字に性格は出ますよね。

わたしの下手な説明で恐縮ですが、始まりは恐山で死者の口寄せをするイタコのイタコ(名前)のもとに、monoと楽(たの)がダブルブッキングで訪れるところからてんやわんやがはじまります。こんなに「てんやわんや」という言葉がぴったりな舞台もないと思う。だってこのあと、アブラハムが出てくるし、三日坊主という縁起物のおじさんも出てくるし、シェイクスピアまで出てくるんですよ。てんやわんやとしか言いようがない。


野田秀樹の夢の中


今回の物語自体、「死者の夢の中」の話だというが、わたしが全体を一言で言うならば、「野田秀樹の夢の中」と言う感じでした。野田さんは、子供であり、大人であり、天才であり、バカである(褒めてます)。


「ずしーーーーーん」とはじまる近代演劇っぽいオープニングに、突然生身の白石加代子さんが登場して「白石加代子でございます」と言っちゃう。舞台に突き刺さった2本の柱に、サーーッと舞台を駆け抜けるブレヒト幕。ここは現実?悪夢?というかこれはもう本番始まってるの?どうなの?というあやふやな、夢うつつ感。


まるで野田秀樹の夢の中で、子供バージョンの野田秀樹に手を引かれ、あっちこっちに引っ張られて「こっちで遊ぼう!」「こんどはあっち行ってみよう」「生者はそっちからおりれないんだよー」「みてみてー!これ!しぇいくすぴあ!」「じゃじゃん!アブラハムでぇーす!」とやられてる感。


た、、たまらん…!!!

わたしは意味不明な人が大好き!!



天才の言葉遊び


置いてかれた言葉

置いて 枯れた 言の葉


ずしーんと大きな音を立てて木が倒れる。誰も聞いていないのになぜ大きな音を立てるのか?とmonoのセリフからこの舞台ははじまる。

誰も聞いていない言葉には意味がないのか?では、形のない言葉である「声」に意味はないのか?36年前山の中に落ちた箱の中には、最後の言葉が入っている。形のない言葉がはいっている。誰も聞いていない、形もないその言葉には、意味はないのか?フェイクのフェイクは、リアルか?フィクションのフィクションは、ノンフィクションか?


このように野田秀樹の言葉遊びは秀逸で、

カラスの格好をしたアンサンブルたちを

「あれはカラスじゃなくてももうコロスだよ!」

親父ギャグ!と笑いになりかけるも、

コロス(古代ギリシャ語: χορός, khoros、 英: chorus)は、古代ギリシア劇の合唱隊のこと。ディテュランボスおよびtragikon dramaから発生したと考えられている。コロスは観客に対して、鑑賞の助けとなる劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈し、観客がどう劇に反応するのが理想的かを教える。また、劇中の一般大衆の代弁をすることもある。多くの古代ギリシア劇の中で、コロスは登場人物が劇中語れなかったこと(恐怖、秘密など)を代弁する。コロスの台詞は通常、歌の形式を採るが、時にはユニゾンで詩を朗読する場合もある。


鳥肌…!!!

怖っ!!!!野田秀樹恐ろしい子…!!オヤジギャグに見せかけて意味がちゃんとある…!!


場所が恐山で、イタコが死者を呼び出す場所で、八咫烏のコロスが飛び、死者のmonoが見る夢を生者たちも一緒に見る。monoが語る、物語る。楽(たの)が死にたい、楽しにたい、楽しみたい。ううん、たの、生きて。「がんばれがんばれ!」


突然フィクションである星の王子さまも登場して、「たいせつなものは目にみえないんだよ」という有名なセリフと、作者のサン=テグジュペリもパイロットで飛行機事故で亡くなっているという共通点が物語を成立させる。「たいせつなものは目に見えないんだよ」と言う言葉を背負った星の王子さまが、「神の言葉を盗んだ」裁判にかけられるmonoの弁護をする。「たいせつなものは目に見えないんだよ」→だから箱の中のmonoの言葉は、目には見えない「声」だけどたいせつなんだよ。

たとえフェイクの言葉でも、目に見える言葉でSNSに発信されたらそれがリアル=ノンフィクションになって、一方、目に見えない声、山の中に置いて枯れた言の葉はフェイクになるの?神様から貰った大切なほんとうの言葉は山の中に置いて、枯れたの?


SNSで色んなコトバの飛び交うようになった現代社会にいる我々にとっても大切な問いが、常に問われている。

小さいおっさんシェイクスピアが突然現れてノリノリでラインダンスしたり(ここでしぬほど笑った)、星の王子様が裁判をしたり、アブラハムと三日坊主が仲良しだったりとふざけ倒して油断しそうになるところに、大事な大事な言葉が盛り込まれた大量のセリフが流れ込み、気がつけばクライマックスの数分間の機内の再現がはじまり、あの凄惨な事件を誰もが思い出す。わたしは産まれてもいなかったけれど、映画や報道で知っている程度だ。だけれど、あぁそうか、このことか。置いてかれた言葉とは、森の中で誰にも見えず聞かれず置いて枯れた言の葉とは、このことか。


正直頭がパンクする!家に持ち帰って数日かけて考えるハメになった。とんでもない。とんでもない舞台だ。


高橋一生の存在


テーマだけで卒論が書けそうな作品だが、観劇した誰もが、主演の高橋一生に触れざるを得ない。

すごかった。セリフは全て聞きやすく届いてくるし、しなやかな身のこなしも、天国と地獄以来のお家芸「イセ子」もさすがであった。わたしは、以前建築家の中村拓志さんと対談していたSWITCHのインタビューを聴いて以来、それとなく高橋一生さんのファンである。芝居に対する考え方に感銘を受け、それ以来、出演作はほぼ全て見ている。岸辺露伴も天国と地獄も凪のお暇もぜんぶ、よかった。でも、今回の舞台は、monoは、なんだか次元が違う。

何者かわからない、色のない存在から、2時間の中で明確な、存在した一人の父親であり、パイロットであった、故人になっていくのがわかる。「あぁ、もうダメかもわからんね」という、本当にあの飛行機のブラックボックスに記録されていた言葉は、高橋一生のmonoが発するともうセリフではなく、確実にあの場の本当の言葉になり、さぁこれがフェイクだとしたら一体何が真実なのだと突き付けてくる。「真に迫る」とかそんなダサい言葉では言い表せない。これが、見る人の想像力を育てる、高橋一生が提示する演劇の意義。意味のある芝居。色々な作品をテレビで見てきたけれども、これが高橋一生のやりたいことで、真骨頂なんだろうなと思った。


日本の宝・二本柱


白石加代子さんは、蜷川幸雄監督の舞台で何度もみさせていただいたけど、野田地図の白石加代子さんは現実味があって、可愛くて親しみやすくてとても好きだった。

そして、橋爪功さん。

イセ子とシェイクスピア作品を諳んじる前半では、人生も終わりに差しかけて自殺を考えていた楽。その壮年の楽が、子供に戻っているシーンが見事だった。セリフも良いんだろうけど、セリフ回しが、絶妙に、5歳なのだ。「パパと、もっと一緒にいたい…」あんな風に自然に子供を演じることができるベテラン俳優っているだろうか。ブレヒト幕がはけてシャツにネクタイ姿のmonoが現れたとき(この一生さんがまたとんでもなくカッコ良かったのだけど)の、うれしそうな顔。プロの役者さんに向けてこんな野暮な言葉もないが「本当の親子みたい」なのだ。


箱にのこされた父の言葉を聞いて、楽は自殺をやめる。リアルな言葉。人が死ぬ間際に残した言葉は、誰にも聞かれず山の中に置いてかれた言葉だったけれど、決してフェイクなんかではない。だから、我々は生きていかなければいけない。生きたかったけど死んでいった人のリアルな言葉を聞いて、紡いでいかなければならない。生きている限りは。 


最後、舞台に二人。橋爪功と白石加代子が立ち、お辞儀をして、この舞台は現実に戻る。より鮮明なリアルを突きつけてきたこの舞台が、フェイクまみれの"現実"に戻ってくる瞬間だ。橋爪功と白石加代子という役者二人が立っている。現実に引き戻された観客の前に、さっきまで5歳のボクとおっちょこちょいイタコを演じていた二人がいる。それだけなのに、このカッコ良さはなんだろう。渋い。渋すぎる。カッコ良すぎる。わたしはこの光景に、一番鳥肌がたったのです。

芝居に人生をかけてきた役者二人がただそこに立っている、それが紛れもなく一番のリアルだった。芝居とは。役者とは。芝居はフェイクというのか?だとしたら、この光景がフェイクだとしたら、何がリアルだというのか?フェイクまみれの世界で、フェイクを通して、我々はリアルを観たのだ。生き様を背負って芝居をする二人に、一番のリアルが宿っていた。



そんなロングラン舞台フェイクスピアも、間も無く東京公演を終えて大阪に行きます。

一人でも多くの人にぜひ観ていただきたい、素晴らしい舞台でした。拙いレポでございました。かしこ


フェイクスピア公式



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