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【小説】森見登美彦「熱帯」を読み始めて。

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汝にかかわりなきことを語るなかれ
しからずんば汝は好まざることを聞くならん

■この小説はそんな書き出しで始まる。
そしてそんなこととは関係なく。
この夏、私は映画を観に行った。

■なんとなく目に入って
これは観に行かねばなるまいと直感を持って確信した。
「サイコ・ゴアマン」だ。
宇宙からやってきた極悪宇宙人が
自らの弱点を地球の少女に握られてしまい
いいように扱われてしまうという、
とても楽しそうな映画だ。

■しかしこれはややマイナーな映画らしく、
大型映画館ではやっておらず
京都みなみ会館という
映画マニアがワラワラと集う
魔の巣窟で上映しておったのです。

■京都駅を越え南に行った東寺の近くにそれはあり。
私は京都は北にある上賀茂から自転車に乗り地下鉄に乗り
京都駅で降りとぼとぼと歩いてたどり着いたわけです。
本当はもう一駅分行けば近かったようだが、
私にはそれを気付く術は無かった。
無知だからである。

■そして私の生まれ持っての用心深い性格からか
映画開始時刻より随分早く着いてしまい、
時間を潰さなければならなくなった。

■スマホをぽいぽいイジっていても良いのだが、
1時間と少し待ち時間があったので流石にそれは難しい。
どこかでご飯でも食べるか?
しかしそういう時間帯でも無かった。

私はみなみ会館の周りをホテホテと当てもなく散歩することとした。

■お、そう言えば久しぶりに見た。
もう何年も入ったことすらなかったのではないか。
私は「ブックオフ」を発見したのである。

しめしめここで本を物色していてば
1時間など一瞬のごたる。
さらに冷房も効いているとあれば一石二鳥。

私はブックオフにするりと吸い込まれるように入店した。

■久しぶりのブックオフ感。
そうだ、そうだ。
こんな感じだったなブックオフ。
本を売るならブックオフ。
タイやヒラメの舞い踊り。
やけに古いジャンプコミックが揃っている。

何か、掘り出し物でもないものか。
いや、数十年前ならさておき現代のブックオフにはもはや
掘り出し物などありはせぬ。
ありはせぬのでございますよ。

■で、これがなんで森見登美彦の「熱帯」の話かと言えば。
私は誘われるようにハードカバーの小説の棚へ。
そこで運命的な出会いをするのだ。
そう森見登美彦の「熱帯」である。

■そして懸命な読者諸君の想像の通り!

私は森見先生のファンではあるが
全ての小説を読んでいるほど熱心な読者ではなく、
しかも貧乏であるからして
ハードカバーの本をホイホイと買えるほどのご身分ではないのだ!

■さぁ、そこに現るるは
森見登美彦の「熱帯」ハードカバー本!
220円のシールが燦然と輝く!
私はさらりとそれを手に取り
するりとレジにスムースイン!
220円、お釣りもなくぴったりばっちり払ってしまい。

めでたく森見登美彦の「熱帯」は私の物となったのだ!
ぬはははは!

■いやいや、
古本屋で買うことで作家先生に何の実入もないことは知っておるのです。

だが私は前述の通り
貧乏である!
なのでここは胸を張って220円を差し出すのだ!
そうだ!
それでもちゃんと本屋で買えというのなら
文庫本を早く出さんかーい!
そうだ!そうだー!
わーい!!

■などと戯言を言いつつ
ブックオフでハードカバーの熱帯を買ったのが
8月29日

映画も楽しんで良い気分で
アパートに帰ってツイッターを見ると
「熱帯」の文庫本が
9月1日に発売されますよと
森見先生のリツートで知るのである。

■なんてこったい!

買っちゃったよ!
いや、そうと知ってればね!
文庫本の方をね!
買いましたともさ!
あぁ、もう!
私のバカ!
バカバカ!

いや、お前は馬鹿ではない。
阿呆だ。

誰だ!?

私か、私は…誰だろう?

知らんがな。

■まぁ、さておき。
小説をちびちびと読み始めていくと、はたして!
もしや私がブックオフで買ったことは
むしろ正当な熱帯へのアプローチではなかったのだろうか。
そんな思いが確信へと変わっていくのです。

■熱帯。
この小説は森見登美彦の自分語りのような内容から始まり。
その中で森見先生が「熱帯」という小説を探している。

■作中に存在する小説「熱帯」は佐山尚一という人物が書いたであろうことがわかっている。

それを森見先生は古本屋で見つけて読んだのだという。

■そう古本屋で買ったのが「熱帯」であるのだ。
ならば私がブックオフで「熱帯」を買ったというのは
もはや必然と言っても過言ではない。

そう私は物語の導入としてはまっこと正しい道から歩みを始めたのである!

そんな気づきに私は鼻息荒く、
幸せな気持ちで物語を読み進める。

■この「熱帯」という小説は
アラビアンナイト「千一夜物語」の構成を取り入れており
物語の中に物語があり
語り部の話す物語の中の人物がまた物語を語り出す。
そういった入子構造の手法が取り入れられている。

■森見登美彦が対談した前野みちひろ先生の
「満月と近鉄(ランボー怒りの改新)」内の一編
「ナラビアン・ナイト」もそれに近い構成だった。

しかしあれは中編だったので。
今回のそれはそれを膨らまして押し広げたものかもしれない。

いや、前野みちひろと森見登美彦は別人なので
それは関係のなきことだ。

■はてさて、そんな感じで
運命的な本との出会いを果たした私は
物語を読み進むのだ。
ずんずん行くよ。

■そして、まだ全然途中なのだが。

運命に従えば、途中でこの本を無くすが正解のような気はしている。

いやいや、続きは気になるので読むのだが。

物語を無くして
物語に取り憑かれ
自分自身が物語になるのが
正しいような気もしてくる。

偶然にも私は京都に住んでいるので、
吉田山にだってすぐ行ける。

はてさて、私はこの物語を無くしてしまうべきなのか。
それとも一気に読んでしまうべきなのか。

え?文庫本を買え、って?

それはその通りである!
全くもって違いない!

うむ、しかし…はてさて。

文章はここで途切れており。
私は内海まりお氏のメールからこの文章を受け取り。
このブログに書いている、と言ったわけである。

はてさて。

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極楽京都日記: 【小説】森見登美彦「熱帯」を読み始めて。 https://kyotogokuraku.blogspot.com/2021/09/blog-post.html?spref=tw

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