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【2021/11/17】どう見える?

他人から自分がどう見えるか、誰だって気になる。出来ればいい評価でありたいし、好きか嫌いかで言うと好きであってほしいと誰しもが思うだろう。

コロナで暇を持て余していた時、これからどうしたいのか何がしたいのかどうなりたいのか、もう極論「自分にとっての幸せとは何か」を真剣に考えて書き連ねるという、自分と向き合うタイムを設けたことがある。

それから「エゴイスティック(自分本位)に」、その後「卑屈に、辛辣に」自分を評価してみた。

そんな行為を行った背景に、自分の立ち位置を自分なりに認識したかったと言うのがある。柔らかい表現で言うと「長所と短所」なんだけれど、それだと生易しい感じがして、ある意味、自分で自分を痛めつけるというか、蔑むというか、そんなトレーニングも必要じゃないかと思っていた。

文字化してみたら、わたしは基本的には承認欲求が高くて、認められたい褒められたいと思って行動している。その一方で、自分よりすごい人が五万といるという現実も受け入れている、ということが分かった。これは新たな発見ではなく、心の奥底では理解していたので「改めて認識した」に近い。だが、その「改めて」は、極めて重要である。事実を分かっていながらも、日々生きていると有耶無耶に出来るので、絶妙に目を逸らすことが出来る。そうして生きていくのが人間なのだと言われれば、それはそうだし、否定しない。でもその時は、自分にとって「自分を改めて認識する」ことが必要だったし、それをしてからは何というか、いい具合に肩の力が抜けた。

「他人からの見え方」ではなく、「自分からの見え方」を大切にできるようになった。

もちろん生きていれば、パフォーマンスと呼ばれるような「媚び」だったり「建て前」だったりは絶対に必要だし、やるべきだとも思う。ただそれが、自分を殺してまでやることかというと、それは違うと思う。簡単に言うと「自分に正直か」どうか。ただ何となくそうした方がいいからと選択した行動はいずれ自分の首を絞める。自分が納得して行った行為なら、たとえ失敗したり咎められたりすることがあっても、苦しまない。

他人からの見え方を気にするとストレスがたまり、やがて病んでしまう。そういう人をたくさん見てきた。”そういう人達”は大抵が、明るくて、優しくて、気の遣える人で、誰に嫌われるでもないし、本当に”ちゃんとした人”だ。(抽象的な表現だけど、これが一番しっくりくる表現)

「気にしなくていいのに」って言葉が通用しなくて、無意識に「気にしてしまう」人たち。「大丈夫だよ」って言葉が重荷になって、「無理してしまう」人たち。

わたしもそういう時もあったし、今だってそうなる時もある。

でも少しずつ、というか今はかなり、そこから離れて、自分本位で考えられるようになった。でもそれはきっと、それを許してくれる仲間がそばに居て、受け入れてくれているからだとも思う。結局恵まれていると言えばそれまでなんだけれど、わたしも誰かにとっての”そういう”仲間でありたいと思う。

自分にとって、どう見える?

そこを一番に考えてほしい。そこに正直になってほしい。

誰かが言う「自分の見え方」は曖昧だし、おべんちゃらもあるし、気分によって変わるし、フィルターもかかっている。ある意味でそれは正解なのかもしれないけれど、そこに合わせたり気にする必要なんてない。自分、から考えた方が良いに決まってる。

「どうありたい?」は「どう生きたい?」で「どう死にたい?」である。

何だか哲学みたいになっちまった。

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