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【2021/9/28】やめてもいいよ

38年間、たくさんの人に出会い、たくさんの経験をし、たくさんの人の優しさ、そして頂いた金言やアドバイスに助けられて、ここまで生きて来れたんだと思う。

だけど、わたしは人の話も聞いてるようで聞いていなくて、自分の発言も覚えているようで覚えていない。自分の脚本に書いたセリフも後で読み返すとこんなの書いたっけ?と思うことがよくある。軽い病気だと思う。

たくさんの言葉を与えてもらったはずなのに、#あの会話をきっかけに というテーマを見て、思い出せる会話はごく少ない。だから意の一番に思いつくのは、自分の中では嚙み過ぎて味のしないガムのような、こすりにこすった会話である。

しかも、母との会話というごくありふれたシチュエーション。こちらもこすりまくったバレーボールに明け暮れた高校時代のエピソード。もしかしてnoteのどこかにも書いているかもしれない。だって自分の脚本にも織り込んだセリフなのだから。

でもそれくらい、偉大な言葉であった。

高校バレーで最も大切な試合に、県大会の決勝で負けた。全国大会への出場が断たれたことは、その後の進路にも影響する。当時わたしはキャプテンで、負けの責任をものすごく感じていた。あまりにツラすぎて、辞めたいと思った。そんなことしても意味がないのに、辞めて責任を取ろうと思っていた。でもわたしはスポーツ特待生だったので辞められない、逃げ場がないと自分で自分をさらに追い込んでいた。

寮生活だったし、当時はスマホもないので、寮にあるピンク電話でしか外部との交流はできなかった。もちろん家族とも。わたしは滅多なことでは電話しないし、電話しても「○○送って」「次の帰省はいつになる」などの業務連絡的なことだけ。

そんなわたしがその日の夜、あまりのツラさに、母に電話をかけた。

「辞めたい」と泣きながら言うと、

「辞めてもいいよ」と母は言った。

ごく当たり前のことかのように、サラッと言った。辞めてどうするのかも聞かなかったし、特待生であることも意に介していない様子だった。

拍子抜けしたのか、逆にやる気がわいたのか、わたしは「やっぱ辞めん」と言った(辞めないという意味の博多弁)。

それから卒業まで辞めなかった。母は可能な限り応援に来てくれた。都合のいい記憶に書き変えていなければ、わたしはそれ以降泣き言を言ったことはないし、それなりに頑張っていい成績も収めた。

母が「辞めてもいい」と言った真意は今でも分からない。私の性格を理解した上でもう少し頑張らせるために言ったのかもしれないし、本当に辞めていいと思って言ったのかもしれない。

本当に辞めていたら?

その人生は自分でも想像がつかない。

結局なにを言われようと続けていたかもしれない。

でも今でも強く覚えているし、そう言ってくれたことに心から感謝している。

「辞めてもいい」

そう思えたら、仕事も学校も、今ある環境も、世の中のことの大半は乗り越えられると思う。「逃げてもいい」と同じ意味だ。

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