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自粛生活note 2020/4/27

今日はタレント仲間に誘われて、初めてインスタライブっつうものをやってみた。

そもそもインスタ自体ほぼやっていなくて、登山の投稿のみに絞って、地味~にコッソリと使っていた。ストーリーってのは聞いたことがあっても投稿したことはないし、ライブに至ってはやり方すら分からない。わたしは今でもTwitter民で、ライブ配信もツイキャスでやってきた人間だ。古いのだろう、古いのかもしれない。でも、アメブロ、Twitter、Facebook、note…もうこれ以上増やせない、増やしたくない。だから、見ないようにしてきた。

しかし、こういう状況だから、やってこなかったことに手を出すのは良いとも思える。しかも誘ってくれる仲間がいるのだから、乗っかるだけ。時間は21時過ぎから。仲間が先に始めているインスタライブに参加する方法は、ボタンひとつ押せばいいらしい。何か入口のネタがあった方がいいと思い、ピザを焼いた。昨日作った生地が半分余っていたからだ。体一貫だけでは心配でしょうがない。

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そして、出来立てのピザを持って登場しようとしたら、自分の画面が見えないトラブルに見舞われる始末。結局自分の映り具合を確認できないまま、ライブはスタートした。ピザをインカメに見せてみても、どう映っているか分からない。視聴者の皆さんのコメントと仲間の反応によると、ちゃんと美味しそうに映っていたらしい。もうそういうもんだと思って、喋るしかなかった。

考えてみると、ロケなどで自分の映り具合を確認できることはほぼない。カメラマンさんがうまく撮ってくれるし、撮ってもらえるようにこちらが動かなければいけない。そう思えば、インスタライブで自分の顔が見えないのはいつも通りともいえる。カメラ目線で、画面の向こう側にいる人たちへ向けて、話せばいいだけだ。ただ、相手の顔は映っているから、目線はスマホの画面ということになるけれども。

結局、今までやっていたツイキャスとほぼ変わらなかった。一緒にいなくてもコラボできること以外は。そして、繋がっていることを認識できるものでもあった。たくのむやLINE電話、ZOOMも、基本的には個人的な付き合いがある人とやる。しかし、ライブ配信すると、視聴者はコメントを送り、発信者はそれを見て、やりとりが生まれる。それは仲間内だけで話しているのはと違う感覚で、「見られている」「(わざわざ)見てくれている」という意識があるのとないのでは、発信者側の気の持ちようも変わってくる。

久々の感触。

たとえ視聴者が10人だったとしても(もう少しいたよ)、その存在が尊くて有難くて、どうにか応えたい、楽しんでもらいたいと頑張ろうとする気持ち。それは「またやりたい」「もっと面白くしたい」に繋がっていく。

自分ひとりではやらなかったけれど、仲間がドアを開けてくれた。今だから、今しかできないことがあるのかもしれない。

トップ画像は、ピザ生地。
行き当たりばったりもいいけれど、やっぱりネタはこねて、少し寝かせないと美味しくならない。

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