写真は詩 2024.4.12〜18
5時過ぎに一度目が覚める。
昨日ちょっと休憩とごろんとなってそのまま完落ちで寝ていたみたい。
寝落ちはよくやるけど、あまりにも完落ちすぎたときはちょっと怖くなる。
寝るというより意識を完全に失ってた、みたいな感じだし、何か大事な予定とか仕事を飛ばしてないかとこわくなる。
スマホがからだの下にあった。電源も切れてた。
充電したらLINEの通知があり、見ると妹と実家の母と地震のやりとり。
とりあえず大丈夫だったみたいだけど、地震があったことすら全然気づかなかった。
まだ眠い。引きずられるみたいに寝る。
そして起きる。まだちょっと眠い。
最近寝ても寝ても眠い。過眠気味。
過眠といいつつ、たぶん正しく過眠してる。よくわからないけど適正量をとってるのだろう。
記憶がなさすぎてちょっと怖いだけで。
日記を書きたいときって、どこかに行ったり誰かとあったり、そんなイベントがたくさんあったときは書けない。データ量が膨大すぎてどこから手をつけて良いかわからなくなる。
書き手としてはそれではダメなんではとも思うけど、生身の人間としてはシャーラップという感じ。
生きるの膨大すぎて、無理すぎ。
日記ってなんで書くんだろと思うけど、忘却に抗うためとかではなく、想起を楽しむためなのかな。タイムカプセルうめとくね、みたいな。
でも私は特にそういう性格ではない。
単純に、書いているあいだ楽しいのかも。
縄跳びとかトランポリンしてるときみたい。
それ自体には意味がない。どこにもいかない。
でも心は跳ねてる。
山の石や草や微生物のことをすべて把握して知らなくても、山はそこにあるし、山と共には暮らせる。
なのでこの日記も、日々のことは書き切れないまま、書いてみる。寝転がったまま跳ねながら。
数日前に、友が谷川俊太郎さんが話す朝日新聞のインタビューか何かを送ってきてくれた。
長文×3つで、まさかこれを全部手打ちしたのかと思って(彼女はそういうことをしそうな人)その方がすごいと思ったけど、流石にデジタル記事をコピペだったらしい。
その中に、写真も詩、みたいな言葉があった。
写真を撮るときも、これは詩だと思って撮っていると。
うわーーー。ハグしたくなる。それなんよ。
好き。。となる。
GRという最高のおもちゃを手に入れてからというもの、写真が楽しくて楽しくてしょうがない。
子どもの頃に最初に写ルンですを与えられたときの喜び。
写真を撮る人の姿も好き。
古いiPhoneでサクラを撮ってる人の後ろ姿とかをみるとキュンとなる。
中之条ビエンナーレに行ったときも、作品もすごいんだけど、作品を撮るその人のスマホ画面に映る作品は全然違って見えたりして、この人にはこう見えてるんだと驚いた覚えがある。
犬猫を飼ってる人のスマホロールが毛玉で埋め尽くされてるみたいに、
付き合ってるうちにだんだん恋人のスマホのカメラロールから自分がいなくなってく、みたいに、写真を撮りたいと思う気持ちは愛によって無意識的に動かされるのかなと思う。
私の場合はなんか良いな、とか、なんか今美しいな、と心が受け取ったときに自動的に撮るので、当然愛だけが残る。
(愛は特別なものではなくふだんづかいしているものなので、ただ愛なだけ。何もしない。返報性の原理もはたらかない。水とか酸素みたいなそのへんにあるもの。)
なんか本当に、ただ愛として生きてられたらな〜と思う。
ここ最近の写真をのせておく。詩たち。
時々日記寄り。
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