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短編小説「君の街にも雨が降る」

「今仕事帰りですか? 遅いんですね。こちらは雨が降ってきました。」

『こっちも、ちょうど降ってきたところです。天気予報外れました🌂』


🌂の絵文字を打ち込んで送信ボタンをタップした親指の近くに、大きめの雨粒が落ちた。降り始めは傘が要らないくらいだったのに、だんだん強くなってきたようだ。スマホを握りしめて、先を急ぐ。

あんまり身体を濡らすと風邪をひいてしまうから、メッセージの確認は家に着いてからやればいいのだろうけど。

バスを降りるまで彼とチャットでやり取りをしていたから、最寄りのバス停に着いて自宅まで歩く途中でも、その流れを止めたくないなと思ってしまった。


マッチングアプリで知り合った彼とは、一か月ほど前からメッセージのやり取りをしていた。まだ会ったことはない。

仕事と家を往復するだけの生活で、人と関わるような趣味も持ち合わせていなかったわたしは、いわゆる「出会い」というものがほとんどない日々で、当然恋人と呼べる人もいなかった。

でも、恋をしたい、という気持ちがどこかにあったようだ。周りの友達が恋人だったり旦那さんだったり別れた相手だったり、そういう話を聞くたびに、「全部ひっくるめて、うらやましい」という気持ちが積み重なっていったせいもあると思う。

マッチングアプリを知ったのも、友達の影響だ。実際にそのアプリで知り合った人と今お付き合いしているらしく、「出会い系サイトみたいな感じで抵抗あったけど、全然、いい人だよ。思い切って登録してよかった」と幸せそうに言っていた。一説によると、マッチングアプリの成婚率は20%ほどと言われているらしい。

とりあえずやってみようかな。ダメだったらすぐやめればいい。友達の紹介でもなく、生活圏が極端に近い人でもなければ、うまくいかなくてお断りしたって、きっと何の問題もない。

そう考えて、わたしは友達が薦めてくれたアプリをダウンロードした。

プロフィールの入力が大事らしいと聞き、数日間悩みながら入力した。登録を完了させたら、すぐに「いいね」が何件か来て、驚いた。

そのうちの一人が彼だ。穏やかそうな風貌、仕事や趣味などの情報にも目を通したが、一番印象に残ったのが、メッセージの文章だった。

丁寧というか、読みやすいというか。長すぎず、短すぎないというか。温度感が高すぎず、低すぎないというか。

とにかく「言葉遣いが好ましい」と思った。

なので、何人かいたうち、彼に「いいね」を返して、メッセージのやり取りが始まった。


「言葉遣いが好ましい彼」とのやり取りは、けっこう楽しかった。

朝起きて、前日の夜に送られていた会話の続きを確認したり。昼休み中にちょっとした雑談をしたり。通勤電車で、今日の仕事の話をしたり。

まだ全然「恋」とは言えないものだったけど、誰かとの関わりは、それが異性であったことがなおさら、わたしの生活にほんの少しだけ、色を与えてくれていた。

画面の向こうでわたしにテキストを打つ彼は、架空の存在のように思えていた。恋愛ごっこ、みたいなシミュレーションを体験しているような気持ち、とでもいえばいいのだろうか。2.5次元の世界にいるような人だなと思っていた。

…だけど。

空を見上げた。

少しずつ強くなる雨。彼の住んでいる場所も今、雨が降っているという。

—そっか、同じ空の下にいるんだな。

少し距離は遠いけど、このひと続きの空の下に、彼という人間が確かに存在するのだ。

初めて彼を、一人の実在する人間として認識した瞬間だったかもしれない。

初めて彼を、一人の男の人として意識した瞬間だったかもしれない。

そしてその気持ちは、決して悪くないように思えた。むしろなんだか、少し嬉しいような気がしていた。


スマホが震える。家まであと2分くらいで着くのに、わたしは待てずに受信したメッセージを表示させた。

「実は来週、仕事でそっちの近くに行く予定です。よかったら、少し会ってみませんか?」

会う、という言葉に、心が跳ね上がった。こういう場合は何と返すのが正解なのかと、少し考えたけど、素直に思ったことを打ち込んだ。

『はい、ぜひ。予定が決まったら教えてください。』

またすぐにスマホがブブッと震える。

「ありがとうございます。詳しい時間など分かったら、連絡しますね。帰り道、お気を付けください。」

『ありがとうございます。実はもう着きました🏠』

🏠のマークを打ち込み、送信ボタンを押した。スマホを鞄にしまい、代わりに玄関のカギを取り出して家に入る。少し髪の毛が濡れた程度で済んだが、早めにシャワーを浴びて着替えよう。

来週に備えて、風邪なんか引いている場合ではない。

その日は何を着ていこう。週末に美容院を予約したほうがいいだろうか。

そんなことを考えるのは、ずいぶんと久しぶりだった。



#あの会話をきっかけに

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