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フリスビーが飛んだら思い出した、愛おしさの話。

黄色のフリスビー

なんてことない日曜日。
急に我が家にやってきた黄色いフリスビー。

ドーナツ型で、周りに星模様がついていて、プラスチックでできている。なんで買ってきたんだったか忘れてしまったけれど、小学校1年生の息子がとても喜んでいたのを覚えている。

ここがかっこいいだとか、被ったら幽霊ごっこができるだとか、前に持ったらハンドルになるだとか、一頻りほめ倒してから、「これで、パパと遊ぶんだ!」そういって外に飛び出していった。「円って、扱いにくいのね」と思ったのもその時で、水平がうまく取れない彼はなかなか飛ばせなくてしょげて、結局一方通行。犬みたいに駆け回って、夫が放り投げるそれを夢中で追いかけていた。


また別の日曜日。
秋晴れの気持ちがいい日だった。

お昼ご飯はパン屋さんに寄り道して、「ちょっと高原にお出かけしようか」なんて話になって。「それならこれ!」って、息子が持ってきたのは例の黄色いフリスビーだった。
「山に持ってって、無くさないでよ・・?」心配そうな上の娘を横目に、彼は得意げに「大丈夫だもん!」と言い張って抱えて車に乗り込んだ。

ブランコにスラックライン、チョコレートクッキーにリンゴジュース。
なんだかんだ言って一年生の彼にとって魅力的なものなんてたくさんあるわけで、なかなかフリスビーの出番もないまま1日が過ぎていった。痺れを切らしたのはパパだった。

「せっかく持ってきたからさ、やろうよ」
夕日も傾きかけた広い芝の上。そう言って放られたデスクは水色とも桃色とも言えない淡い空によく映えた。前よりもちょっとだけ上手に受け取れるようになった息子はルンルンで、心なし動きも機敏で、ケラケラ笑い転げている。

ちょっと離れたところに座っていた私は、iPhoneのカメラを構えようとしてカバンを手繰り寄せる。気づいた夫が張り切って「よーし!」なんて言って振りかぶって、思いっきり飛んだデスクは当然子どもたちに追いつけるはずもなく、地面に当たる。

「「「 あ 」」」

3人の声が重なって聞こえて、何かと思ったらフリスビーが割れていた。しょげて半泣きの息子と、それが可愛くて笑い始めた夫。ほーら言わんこっちゃない、と、冷めた顔の娘。
また面倒なことを・・と思いながら近寄って、息子を抱き抱える。

「壊れちゃったものは仕方がない」「パパだってわざとじゃない」それはもう、息子もわかる話で、やり場のない「そうは言っても悲しい」だけ受け止める。ちょっと落ち着いたのを見計らって、夫が息子に謝って「来週、新しいの買ってくるから」と約束までして。帰り道、夜ご飯のハンバーグを頬張る頃にはもうすっかり仲直り。次はこんなのがいいよね、もう割れないように布にしようね、なんて一緒になって盛り上がっていた。


赤色のフリスビー

私が仕事で不在だった土曜日。
家に帰ると、ご機嫌な息子が新しいフリスビーがきたことを教えてくれた。

「今度はね、赤いの!布だからね、割れないよ!」
そう言ってまん丸の、渦巻模様が書かれたデスクを見せてくれた。ハンドルにはならないけどお盆になるし、幽霊ごっこはできないけど、壁にかけたらダーツごっこができると言っていた。仮面ライダーだかなんだかの色だからかっこいい、とも言っていた気がする。

張り切って公園に行ったのはその翌日。なんだかだいぶ上達していて、キャッチもできるし投げ返したらちゃんとこちらの手元に返ってくる。聞けば昨日、家でパパとまた遊んだらしい。「ふふん」と笑う顔はもうほんと、ちょっと憎たらしいくらいに得意げ。風が吹いたって、お日様が眩しくたって関係ない。受け取りあいっこができるのが嬉しくてしょうがなくて、「こんちくしょ」って、頭グリグリしたくなるような顔だった。

またしても、痺れを切らしたのはパパだった。「ほーら見てろよ、パパだってすごいんだから」って、ちょっと意地になって思いっきり放り投げられたデスク。え、既視感・・。違ったのはきっと、本体の重さと風の強さだった。ふわりと風に乗って、さらに舞い上がって、着地した先は隣接していた建物の屋根の上。しかもご丁寧に、中央寄りにある雪止めに引っかかった。

「「「   あ  」」」

また声が重なる。

「全く。パパはさ、もうしばらくフリスビーやったらだめだね」
娘の、冷静なのにどこか面白がるような声を聞いて、息子が弾かれたように笑い出した。


ZINE


きっと5年くらい前の日曜日。

結局取れなかった赤色フリスビーに対する未練を聞きながら、帰りの車で夫のことを書いたZINEの存在を思い出した。

テーマは「ハタチの自分」。同い年の私たちにとって20歳はちょっと特別で、結婚を決めて就職をして子どもを授かって車を買って、みたいなばたばたの一年だった。「どうだったんだろうな、実際のところ」ふと思い立ってインタビューしたのが、その記事の発端。完成した文章はZINEになって今も残っていて、家についてから久しぶりに引っ張り出してみた。

「結婚願望そんなに強くなかったし」
「でも手放したくないと思ったし」
「親になるのは複雑だったしもっと遊びたかったし」
「でも責任持って育てたいと思ったし」

当時25歳になったばかりの彼の口から聞くハタチの自分たち。なんだかとても未熟で、よくやってこれたな、なんだか成長したなって思いながら記事をまとめた記憶があるのだけれど、30歳になった今読み返すとそれもやっぱり未熟で、何かちょっと斜に構えてるなあ、って、いけすかなさを覚えた。
ページの締め括りは、「ありがとう、これからも、よろしくお願いします」「こちらこそ」という会話調。「これは多分、なにか皮肉を込めたかったんだった気がするな」って言ったら、一緒に読んでいた30歳の夫に笑われた。


あの感情に今、名前をつけるなら


今年私が自覚した感情に「愛おしい」というのがある。

愛と名のつくものは苦手でわかりたくなくて避けてきた一つなのだけれど、ある人に「どれも平等にすきだとは思っている」と伝えた結果「それは愛やね」と返事がきて、否定したくて考えた結果浮かんだのが「愛おしい」だった。

恋ほど、軽くときめかない。
好きほど、気軽に口にしない。
でも愛しているほど、深くない。

かわいくて大事に思う。
同時に、ちょっと気の毒でかわいそう。
そしてそれは、私にとって苦痛になりうる。


ZINEを開きながら、ああ今の私にとって、家族は最大のいとおしいだなあと思った。

子どものいる生活は10年目に入った。その間、絶え間なくいろんな感情が私の中に渦巻いている。それは確かに自分のものだとわかる時もあるし、よく考えたら私じゃなくて、子どもの、夫の、家族の感情に引っ張られていると思うことも多くある。


フリスビーを買ってもらってルンルンだったのは息子。
その様子を見て張り切って投げちゃうのは夫。
失敗したパパを眺めて呆れながらも楽しんでいるのは娘。

たのしくて、可愛くて、かわいそうで、ちょっとうざったい。
いけすかなさも、成長も、皮肉も、それを見て笑えるのも、全部が大事だ。



次の日曜日は、栗拾いにいく。その次の日曜日は、仕事。
またそのうち、5年くらいたったら、このnoteも読み返したいな。


そんなことを考えながら、キーボードを打っている。


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