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Facebookからの転記

半年間、毎月あたまにマーケットをひらいて、家をあけてみた今年。(個人的には、おいしいものも、コーヒーとおしゃべりも、日用品も、季節の洋服も、アクセサリーも、全てが徒歩圏内(といいつつイベント朝はバタバタ過ぎて車で行くんだけれど)で揃う日常ができた、というのが、ものすごい快適でうれしかった今年)。

出店者さんやお客様とのやり取りを通じて、さんかくのいえのmanichéは、いろんな人の「休息の場」だったんだなあと、なんとなく思っている。

だいたい初めてきた人の8割がいうことばは「おばあちゃん家みたい」。そして午後になると「あーだめ、おひるねしたい」。

いや、気づいたらもうだれか寝てるのが常。

だいたいね、あのソファーで大人が寝ている。

朝はモジモジしていた子どもたちも、午前中家のなかでわーきゃーして、だいたい全部が友だちになって、午後には近くの公園にでかけていく。

大人が引率してくれていて「あれ?そういえばあの人は、?」てなったり、小学生がいると彼ら彼女らが面倒を見ていてくれたりする。誰と誰が兄弟姉妹?なんていつものことだし、首のすわりきらない赤ちゃんでさえ、ベテランの誰かが見ていてくれるから、おかあさんの腕に戻ってニコニコしている赤ちゃんを見るまで、「おかさあんだれだっけ。おばあちゃんだれだっけ」てなるくらい、ゆるい。

はじめましての人もだいたい誰かの誰かの知り合いだったり、SNSで知っている人だったりして、「ああああ!」てなるし、そもそもたぶん「お客さん」なのか「出店者さん」なのか「主催者」なのかの垣根がものすごくわかりにくい。

明確に出店ブースみたいなのも決めてないから、朝の「このあたりにおねがいします!」からはじまって、なんとなくみんなが家のまわりに存在していて、畳だからみんな靴脱いで座っちゃうし、買いたそうな人がいると「お客さん来てるよ!」て、店主が呼び出されるシステム。よくよく見たら店主、隣の店でワークショップに参加していたりする。

マスクも感染対策も、そのほとんどは個々にお任せ。飲食を提供するときはちょっとだけ、主催側でもいろんなことを気にしたけれど、家のなかで誰がとやかくいうでもないし、はじめは周囲の人から声がかかったこともあったけれど、最近はすっかりそれが定着している。

たまにふらりと、ご近所のおじちゃんが覗きにきてくれたり、なにかもってきてくれたりもする。「坊主たち栗拾いいくか」なんて、一緒に出かけてくれたりもする。くわえタバコで去っていくおっちゃんと小学生男子の後ろ姿は、なかなかにいい哀愁が漂っていたとおもう。

もちろん嫌なら、参加しなくてもだれも気にしない。「もうやだ!帰る!」と宣言してうちの娘がいなくなるのも常だし、車のなかから出てこない人もいる。そのうち誰かが、ふと人生相談をはじめていたり、教育について、食について、農について語り出したりする。いろんな考えがあるなあと思う。

今日、11時半にまちのなかに鳴り響く農協のサイレンを聞いた出店者さんのひとりが「あ、もうそんな時間だ」てつぶやいた。もうそれくらい、ここの時間の流れに馴染んでくれているのがうれしい。さんかくのいえには時計がないから、たぶん、時間に鈍感に、流れに敏感になれるのだとおもう。

よくわからないけど、そういうのがいいなあと思ったので、ちょっと書き残しておいてみる。

「大丈夫」が許され続けるために、「なんでも」をやめないといけないよね、というのは、まにまにとして話しているところ。まだうまく言葉になっていない。でもたぶん、きっと、「なんでもいいよ」は優しさではないんじゃないかという仮説を立てている。だから受け入れられないものもあるし、切り捨てるものもある。

今日聞いた古典ラジオで、必要なときに必要な領域をうごかす、つかう、みたいな話していて(肝心のなにと何をスイッチするのかわすれた)「人間ってそういう矛盾だらけの生物だから」「言ってることもすぐ変わるし」「一貫性なんてそもそも持ち合わせない」というのを聞いて(ここだけ抜粋すると語弊がありそうなので興味のある人は聞いてみてください。三蔵法師が終わったあたりの回でこの話しているです)、ちょっと勇気をもらったところで、「だってそれはちがうもんやだ」ってこれからきっとあると思うけど、でもそれは昨日感じた「ここ」を守るための判断です、という感じ。

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