「骨の十字架」第1話

「──えー、つまり、この時の主人公の心情に最も近いのは──……」

 国語教師ののんびりした口調は、山下仁志やましたひとしや彼のクラスメートたちにとって、催眠術も同然だった。

「えー、だからこそ主人公は、すぐにはその場を立ち去らずに──……」

 最後の足掻きと言わんばかりのアブラゼミの大合唱や、時々何処かのクラスから聞こえてくる歓声も、催眠術師の声と共に遠ざかってゆく。授業開始から一〇分と経たないうちに、仁志は教科書ごと机に突っ伏してしまった。

 ──こちとら朝方までオンゲーやってて、ろくに寝ちゃいねーんだよ……。

 どれくらいの間、そうしていたのだろうか。誰かに肩を叩かれ、仁志はハッと顔を上げた。教室内には仁志と、すぐ隣に立つ男子生徒以外、誰の姿も見当たらなかった。

「ヤベッ! え、あれっ」

 仁志が壁時計を見やると、一七時を回っていた。

「うっわ、マジかよ? つーか、何で誰も起こしてくれねーで帰っちまうんだよ!」

 怒りに任せ、掌で机を叩く。ふと視線に気付き、若干の気まずさを感じながらも、仁志は自分を起こしてくれた男子生徒をまじまじと見つめた。身長は一六五センチ前後、やや垂れ目で、小さな鼻と血色の悪い唇。顔色も、白いというよりは青白く、不健康そうだ。 

 ──こんな奴、いたっけ?

 少なくとも同じクラスではない。入学から五箇月、流石にクラスメートの顔くらいは覚えた。仲のいい奴らがいるので他の四クラスにもよく遊びには行くが、思い出せそうになかった。

「あー……えーっと、どうもッス」

 軽く頭を下げると、男子生徒は口の端を吊り上げ、ニイッと笑った。不自然で不気味に感じられるのは、目だけは笑っていないからだろうか。仁志は思わず視線を逸らした。

 ──とっとと帰ろう。

 仁志は立ち上がると、机の横からスクールバッグを取り、リュックサックのように背負うと椅子を押し戻した。男子生徒と目を合わせないようにしていたが、相手からの視線はずっと感じていた。

 ──一緒に帰ろうなんて言い出すなよ?

 無言で足早に去りかけた仁志は、視界の端に捉えた男子生徒の姿に違和感を覚え、足を止めた。振り向くな、そのまま教室を出るんだ──本能はそう告げていたが、好奇心には勝てなかった。

「えっ!?」

 男子生徒の容姿はガラリと変貌していた。顔全体が白塗りで、目の周りや眉が黒く縁取られている。血のように濃く赤い口紅が唇から頬骨にまで引かれ、異様にぎらついた目まで同じような色をしている。
 衣装も特徴的だ。てっぺんから二つに分かれ先端にポンポンが付いたキャップと、先端がクルリと丸まっているブーツは、右半分が黒で左半分が白。それらと配色が左右逆の、体にフィットしたスーツ。キャップのポンポンとスーツの付け襟は、口紅と瞳よりやや明るい赤だが、それでも血を連想させるのには充分だ。
 そう、その姿は──

「ピエロ……?」

 男子生徒は、先程と同じように口の端を吊り上げ──

「ウケケケケケケケッ!」

 黄ばんだ歯を見せながら、耳障りな笑い声を上げた。
  
 ──コイツ、何かヤバくね?

 仁志の背中を嫌な汗が伝い、ブルリと体が震えた。

 ──逃げないと。

 仁志はゆっくり後ずさると、何かに気付いたような素振りを見せ、黒板の方に顔を向けた。ピエロがつられて同じ方を向いた瞬間、教室後方のドアから逃走した。

 ──ありゃ、ヤバい奴だ!

 学校を出ても走るのを止めず、仁志はそのまま警察署を目指した。振り返ってもピエロの姿は見えなかったが、このまま自宅に直行するのは危険だと判断した。ピエロアイツ仁志オレの姿を見失っても、簡単に自宅の場所を突き止めてしまうだろう。アイツは普通の人間じゃない──どういうわけか、そんな確信があった。

 ──もしかして皆、アイツから逃げたのか? オレを見捨てて?

 警察署はすぐに見えてきた。直接世話になった経験はないが、何度か目の前を通った事があるので間違いない──たとえ周囲の景色が本来のものとは若干異なっていても、通行人や自動車などの気配が全くなくても、学校から約五〇〇メートルはある距離を僅か三〇秒足らずで走り切っていても。

「助けてください!」

 警察署の重いドアを一気に引くなり、仁志は叫ぶように言った。署内に入ってすぐ左の受付に、下を向いている男性事務員が一人と、フロアの奥で立ちながら談笑する男性警官が五人。しかし、誰もが無反応だった。

「あ、あの、ちょっと」

 男性事務員はゆっくり顔を上げた。浅黒い肌全体に深く刻まれた皺。地肌の見える薄い白髪頭も含め、七〇代以上に見えるが、定年後に再就職したのだろうか。

 ──天下り、とかいうヤツ?

「はいはい……何ですかね」

 事務員の態度が気に入らなかったが、仁志は怒りを堪え、

「ピエロが……変なピエロが学校にいて! 最初は普通の生徒だったんだ、でも気が付いたら変わってて、目はギラギラしてるし笑い方はイカれてるし、何か色々ヤバくて!」 

 我ながら意味不明な話しっぷりだと内心自虐しつつ、仁志は相手の反応を窺った。

「ふーん、そうなの。ご苦労様」

 事務員はのんびり言うと呑気に大きな欠伸をし、あろう事か立ち去ろうとした。

 ──はあ!?

「おいおい、ちょっと待てよ!」

 事務員は露骨に面倒臭そうに振り向き、

「だってねえ坊や、変なピエロがいたって言うけど、そのピエロが君に何か悪さしたのかい?」

「……それは……」

 言われてみればその通りだ。しかし仁志の本能は、ピエロが危険な存在であると警告を続けている。何とかして、この態度の悪いジジイを説得し、学校に警官を向かわせなければ。

「君が居眠りしていたところを、そのピエロに起こしてもらったんだろう?」

「そ、そうだけどよ、でも学校にピエロなんか、普通いないっしょ」

「どうだろうねえ」

「いや、いねーよ! そもそも最初は姿が──」

「うんうん、わかったわかった」

 事務員は胸ポケットからボールペンを外すと、ペン先でドアの方を指し示した。

「総合病院はここ出て右、ちょっと進んだ先の横断歩道を渡って角を右ね。精神科の受付は奥から二番目の窓口だったかな」

「いい加減にしろやゴラァ!!」

 仁志はカウンターに両手を叩き付けた。

 ──もう我慢出来ねー……!

 仁志には、自分は喧嘩に強い方だという自信があった。中学時代、番長気取りの上級生とその取り巻き連中合わせて一〇人を、自分を含め六人でシメてやった事があった。騒ぎにはなったが、先公も保護者連中も、ちょっと怒鳴ったり脅してやれば大人しくなった。

「〝大人しい〟って言葉はさ、〝大人〟に〝しい〟だろ? だから大人共は黙ってりゃいいんだよ」

 後日、仁志が仲間たちの前でそう言うと、皆そうだそうだと頷き合ったり感心していた。もしかしたら自分は、そんなに頭も悪くないのかもしれないと思えた── 卒業後は、偏差値が県内最低レベルの坂倉さかくら高校に進学する事になるのだが。
 高校入学から現在に至るまでも度々トラブルはあったが、大きな喧嘩は起こらなかった。中学も同じだった何人かの同級生たちが、仁志の中学時代の活躍を勝手に広めており、どいつもこいつも怖気付いてしまっているようだった。

 ──いくらケーサツ相手だからって、こんなジジイ一人くらいビビらせるのはワケねーんだよ。

「テメーよぉ、さっきから何なんだよその態度は。ああ? 聞いてんのかコラ」

 事務員には動じず、ただ黙って突っ立っている。仁志は舌打ちした。

「テメエじゃ埒があかねーよ、このクソボケジジイ。他のヤツに代われや、おい」

 仁志はふと、フロアの奥に目をやった。信じられない事に、五人の警官たちは未だに談笑中だ。

「おい、そこの──」

 警官たちの会話が耳に入ってきた。

「キレてるキレてる! いやぁ元気なこって」

「ピエロが! 変なピエロが! だってさ」

「変なのはお前の頭だよってな」

 ──コイツら……揃いも揃って……!

「ふざけんじゃねええええええええええええ!!」

 顔を限界まで紅潮させた仁志の怒声が、フロア全体に響き渡った。

「ケケケッ」

 数秒の沈黙を破ったのは、一人の警官の笑い声だった。
 仁志は唐突にある事実を思い出した。さっき、受付のクソジジイはこう言った──〝君が居眠りしていたところを、そのピエロに起こしてもらったんだろう?〟

 ──オレは、居眠りしていたなんて喋ってねえぞ……?

「ケケケケッ」

「ケケケケケッ」

「ウケケケケケッ」

「ウケケケケケケッ」

 最初の笑い声が合図であったかのように、残る四人も順番に笑い出した。その耳障りで独特な笑い声には聞き覚えがあった──それもつい最近。

「ウケケケケケケケッ!」

 すぐ隣からも聞こえ出した。振り向いた仁志は、ヒイッと情けない声を上げた。
 そこにいたのは、あのピエロだった。
 笑い声の大合唱を背に、仁志は警察署を飛び出した。助けを求めてあちこち走り回るも、誰の姿もなく、車も走っていなければ鳥のさえずりさえも聞こえない。異様な静寂さに包まれている。
 足を止め、痛む脇腹を押さえながら何気なく空を見上げた。雲一つない、一面の青──ではなく、赤錆色。
 仁志はしゃがみ込んでえずいたが、出てくるのは少量の胃液だけだった。
 笑い声が後方から近付いて来る。
 仁志がよろめきながら立ち上がり、逃げ出す気力もないまま涙目で振り返ると、笑い声の主は歩みを止めた。白手袋をはめた右手には拳銃が握られ、銃口はこちらに向けられている。

「嘘だろ……」仁志の声が震えた。「何なんだよぉ……カンベンしてくれよぉ!」

「ヤなこった。ケケケッ」

「何で……何でこんな……オレ何もしてねーだろ! 意味わかんねーし!」

「ボクだって何もしてなかったんだよ」

「は?」

「いいや何でもないよ。独り言さ」ピエロは僅かに銃口を下げた。「それよりさ、ボクはもう飽きちゃった。キミだってこんな夢、とっとと終わらせたいだろ?」

「夢……?」

 仁志はポカンと口を開いて茫然と立ち竦んでいたが、やがて理解した。この静か過ぎる街、変色した空、警察署での理不尽な仕打ちに、その警察署までの距離の短さ、そしてこのピエロ。どうして今まで気付かなかったのだろう!

「……んだよ、散々ビビらせやがって! オレがアホみてーじゃん」

 仁志は初めて笑った。恐怖感はほとんど失せていた──そう、ほとんどは。

「え、何、あんだけ笑いまくってたクセに今度はダンマリなワケ?」ピエロは答えないが、仁志は構わず続ける。「いやぁしかし、全っ然気付かなかったわ。つーか何でピエロ? 最近ホラー映画とかで流行ってるから? まあ夢なら何でもアリか。つーかいい加減その銃はしまっ──」

「うるせえな」

「……え?」

「うるせえって言ってんだよ」

 ピエロは全く笑ってはいなかった。何の感情も込もっていないドスの利いた声に、仁志から引きかけていた恐怖の波が再びどっと押し寄せて来た。

「飽きたって言ったよな。とっとと終わらせるぞ。これ撃って、死んでさ」

「わかった、わかったよ。オレだってこんな夢、見ていたかねーよ!」

「それじゃあ最後に一つ、夢に関しての豆知識を教えてやるよ」

 そんな事はどうでもいいから早く目が覚めてくれと願いながらも、仁志はこれ以上ピエロの機嫌を損ねたくはなかったので素直に頷いた。

「眠りに就いた際に見る夢ってのには、色んなタイプがある。ボクが見せてやる夢は結構特殊なタイプなんだ。夢は夢なんだけど、同時に現実でもある。現実世界としっかりリンクしているんだ。言ってる意味わかるか?」

 仁志は一生懸命考えを巡らせた。

 ──えっと、これは夢だけど現実、つまりオレは本当に警察署の近くにいる……?

 ピエロの口元が微かに歪んだ。

 ──え、でもそれじゃあ、他のヘンテコな部分はどうなって……?

「ケケケッ」

 仁志は体をビクつかせた。

「流石は、偏差値最低クラスの坂倉高生だ。何せも──忌々しいゲス野郎も通っていたくらいだもんな」

「……アイツ、って──」

「はっきり教えてやるよ。この夢の中で死ぬと、現実世界でも死ぬ」

「ああ、そ、そっか。なるほどな。何だ簡単じゃねえか! ハハハハハハッ!」

 ピエロはニイッと笑い、拳銃の安全装置セーフティを解除した。

「ハハハハ……マジで?」


 耳をつんざく悲鳴と大きな物音に、坂倉高校一年二組の教室内は騒然となった。

「何だ、どうした」

「山下が!」

 女子生徒の短い悲鳴が上がった。黒板に板書していた国語教師が振り返り、生徒たちの視線が教室最後列のある一席に向けられている事に気付くと、すぐさま駆け寄った。そこには、つい先程まで机に突っ伏していたやる気のない男子生徒の一人が、椅子ごと真後ろにひっくり返っていた。白目を剥き口から泡を吹いたまま、ピクリとも動かない。

「山下、大丈夫か? 聞こえるか? 誰か救急車を! 保健の先生も連れて来てくれ。おい、山下! 山下?」


 山下仁志が最期に目にした光景は、赤錆色の空と、とびきり不気味な笑顔で自分を見下ろしながら手を振るピエロの姿だった。



「監督! 今回の作品ですが、どのような内容でしょうか?」 

「はい。今作は、家族愛、親子の絆といった普遍的なテーマを軸に据えつつ、現代日本の社会問題に真正面から向き合った、ヒューマンドラマです」

 初老の男性映画監督の回答に、女性インタビュアーが短く感嘆の声を上げる。朝のワイドショー、エンタメコーナーでの一幕だ。

 ──ふん。

 道脇茶織みちわきさおりは、テーブルの上のリモコンを取ると、テレビの向こうで綺麗事を言いながら盛り上がる人間たちを消し去った。小さく溜め息を吐いて椅子から立ち上がると、空いた食器をキッチンに下げ、自室へと戻る。
 カーテンを半分開いて窓の外を覗くと、絵に描いたような澄んだ青空が広がり、木々の葉が優しく揺れていたが、茶織がそよ風にでも当たろうかと窓を開けると、まるで示し合わせたかのようにピタリと止んでしまった。

 ──何なの?

 ピシャリと窓を閉め、完全に外の景色を遮ると、再び溜め息が出た。三日前から、頭が重く、胸の奥がモヤモヤしてスッキリしない。些細な事で苛立ってしまう──もっとも、元々短気な性格ではあるのだが。

 ──あんたのせいよ、綾兄あやにい

 茶織はデスク上のノートパソコンの横に無造作に置かれたある物を手に取ると、睨むようにじっと見やった。

 ──こんな物だけ……こんな物だけ残して、ろくな説明もしないでいなくなるなんて!

 縦三〇センチ、横一二センチ程のサイズのそれは、何かの骨を二本組み合わせて作られた十字架だ。交差している部分には、元々は白かったのであろう汚れた細い紐がグルグルと巻き付けられている。骨同士はしっかり接着されているらしく、強く引っ張ってもビクともしない。
 この奇妙なアイテムの元々の持ち主は、茶織にとって唯一の大切な存在である、叔父の道脇綾鷹あやたかだ。約三週間前、久し振りに再会してから同居していたが、三日前に〝仕事〟を理由に去って行ったばかりだ。


「ねえ綾兄、もう何十回も聞いてるけど、また聞くよ」

 三日前。
 四畳半の部屋で身支度を整えている叔父に、茶織は駄目元で尋ねた。

「綾兄の仕事って一体何なの?」

 過去に何度も尋ねてはいたが、その度に大雑把な答えしか得られず今日に至っている。

「あれ、もう何十回も答えているけれど、忘れちゃったのかな。俺の仕事は〝人助け〟だって」

 案の定、今回も大雑把で少々意地の悪い回答だった。

「もう、何で? そんなにわたしが信用出来ない? これも何十回も言ってるけど」

「それにも何十回も答えているけれど、そうじゃないんだよ。いずれちゃんと話すから……って言うと、いずれっていつなのよって怒られちゃうんだよな」

 笑う綾鷹に茶織は、綾鷹以外の人間の前では絶対に見せる事のない、子供のような膨れっ面をしてみせた。
 綾鷹は苦笑すると、自分のリュックサックの中からある物を取り出した。

「綾兄、それ……十字架?」

「ああ、骨で出来た十字架。動物の骨らしいんだけれど、何の骨かは俺も知らない。この間まで滞在していたハイチで手に入れたんだ。ヴードゥーのアイテムだよ」

「ヴードゥー……」茶織はゆっくり小首を傾げた。「怪しい宗教や呪いというイメージが強いわ。確かゾンビも元々はヴードゥーよね。本来は人を食べたり、感染させたりはしないんだっけ」

「そう、よく知ってるね。でもイメージに関しては、誤解なんだな。多くの人間が茶織と同じように答える──怪しい、カルト、邪教、呪術、黒魔術、死神……とかってね。まあ確かにそういう面もあるっちゃあるけれど、実際はもっと陽気な感じだし、極端に恐ろしいものではないんだよ」

「へえ……」

 綾鷹がそう言うのなら間違いはないのだろうと、茶織はすんなり信用した。

「ハイチって国はね、様々な問題を抱えているし、ヴードゥーと同じでネガティブなイメージを持たれやすいけれど、俺が出会ったハイチの人々は、それでも前向きでタフで、明るく気のいい人たちばかりだったよ」

 いつか連れて行ってよ。私も一緒にあちこち旅して回りたい──それくらいのわがまま言ったって許されるだろう。茶織はそう考え、実際に口にするつもりだったのだが、直後に綾鷹の話が全く予想外の展開を迎えたため、言わずじまいとなる。

「で、この骨の十字架は、ヴードゥーの精霊ゲデのリーダー、バロン・サムディを象徴するアイテムの一つなんだけれど、ただの十字架じゃないんだ」
 
 綾鷹は得意げにそう言ったものの、ふと神妙な面持ちになり、骨の十字架を茶織の手に握らせた。

「茶織、これを持っているんだ。何か困った事件が起こって、万が一それに巻き込まれてしまったら……その身に危険が迫ったら、サムディを呼び出すんだ」

「……え?」

「格好良く言うなら〝召喚〟だね。サムディは変な奴だけれど何だかんだで頼りになる。ああ、酒と煙草が大好きだから、ちょっと金が掛かるかもしれな──」

「ちょちょちょっ、ちょっと綾兄!」茶織は思わず大声で制止した。「ねえ、一体何の話? よくわかんないよ」

「今言った通りさ……睨まないでくれよ、いや本当にもう、今言った通りなんだ……っと、もうそろそろ行かないと」

 困惑する茶織をよそに、綾鷹は身支度を整え終えると部屋を出た。

「あ、あのね綾兄」

 玄関まで来ると、茶織は綾鷹のパーカーの裾を掴んで引き止めた。グレー一色のシンプルなこのパーカーは、茶織が高校一年生の夏にアルバイトで得た人生初の給料でプレゼントした物で、今ではだいぶ使用感がある。

「今ので理解出来る人間って、まずいないと思うの。バロン・サムディを召喚? その前に困った事件て何なの」

「ああ……ちゃんと詳しく説明するべきなんだろうけれど、それだと時間が掛かる」

「時間ならあったじゃない」

「あー……うん、まあ、そう言われればそうかもしれない……ね」

 茶織が綾鷹に本気で怒りを覚えたのは、これが初めてだった。裾を掴む手に自然と力が入る。

「いずれ話す。絶対に。だから今は一旦納得してくれ……な?」

 綾鷹の表情と口調は穏やかだったが、有無を言わせぬ迫力があった。納得出来るわけがなかったが、茶織は仕方なく手を離した。

「ごめんな」

 茶織は返事をせず、目を伏せた。気まずい空気が漂う。

「色々とお世話様」やがて綾鷹が静かに口を開いた。「次また帰国する前にも、ポストカードを送るよ」

 外に出た綾鷹は、すぐにはドアを閉めなかった。

「……早く行きなよ」茶織は目を伏せたまま冷たく言い放った。

「元気でな」

 静かにドアが閉まる。階段を下りる足音が徐々に遠ざかってゆく。
 茶織はドアにもたれ掛かり、大きく溜め息を吐いた。


 今では綾鷹がいない寂しさよりも、怒りが圧倒的に勝っている。頭が重いのも、胸の奥がモヤモヤしてスッキリしないのも、些細な事で苛立ってしまうのも、ついやけ食いしてしまったり就職活動する気が余計に起こらなくなってしまっているも、全部意地悪な叔父のせいだ。

「次の再会が楽しみね」

 道脇茶織は、いつまでも落ち込んでいたり、くよくよ悩み続けるような人間ではなかった。

「今度再会した時こそ、絶対に全部喋ってもらうから。覚悟しておきなさいよ、道脇綾鷹!」

 茶織は骨の十字架をへし折らんばかりに強く握り締め、鬼気迫る表情で宣言した。

 

 
 

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