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#カノジョよりマリノス

うっちです!

こんばんは。これを書いているのは、ホーム日産スタジアムにて怨敵、横浜FCを我らが横浜F・マリノスが5-0で粉砕した翌日22時となります。実に気持ちの良い週末となりました。


今回の記事では、いつもの遠征日誌風では無く、このタイミングで書かなければいけないかなと言うことをいくつか書いていきます。

横浜マリノスとフリューゲルス

「クラブ名を「横浜マリノス」に改称、チーム名を「横浜F・マリノス」に改称。横浜マリノスと横浜フリューゲルスが一つになり、新たなスタートを切った。」

横浜F・マリノスのFには、今は亡きフリューゲルスの意志が込められている。

当時の横浜マリノスにとっては、翼が生えたというよりは、十字架を背負ったようなものである。

当時を知らない僕がこの問題について触れることを快く思わない人もいるかもしれない。聞きかじったような知識を纏めないで欲しいと思う人もいるかもしれない。

ただ、歴史とは今や未来を生きる上で学ぶべきものであり、それは愛するクラブの場合でも例外ではない。僕はそう思う。


全ては横浜市にあった、中区スポーツ少年団をから始まる。ANAが援助を行ったことで、横浜トライスターサッカークラブ、その後1984年に、全日空横浜サッカークラブとなった。

ANAのAと、Jリーグ参戦にあたり共同出資した佐藤工業のSを取ってASフリューゲルスと名乗っていた時期もあったこのチームは、放送各局でもその呼び方が異なっていたが、1994年から「横浜フリューゲルス」に統一された。

そして時は1998年10月29日、マスコミから横浜マリノスとフリューゲルスの合併がリークされた。

この吸収合併は、Jリーグそのものの低迷や、バブル崩壊の煽りを受けたような佐藤工業の経営不振による、クラブ運営からの撤退に加え、当時赤字であったANAも単独ではクラブを支えられないという背景から起こった。

消滅するよりはと、日産自動車と協議し吸収合併となったが、事実上のクラブ消滅であったことは間違いない。

ちなみに、その後のF・マリノスには、三浦淳宏や吉田孝行、皆様ご存知の波戸さんなどがフリューゲルスからそのまま加入する形となった。当時フリューゲルスユースに所属していた坂田大輔や田中隼磨もそうである。他にも途轍も無い面々がこの出来事の影響を受け、現在のサッカー界のIFを生み出している。

急ごしらえで発足した横浜FCには直接フリューゲルスから移籍した選手はいなかった。

横浜フリューゲルスのサポーター有志によって立ち上げられた、株式会社横浜フリエスポーツクラブの「企業の資本に頼らない純市民参加型のクラブ作りを目指す」という観点から設立されたクラブ運営の核となる任意組織ソシオフリエスタも、横浜フリエSCとの間では協定書が破棄されている。

ソシオとの離別の後、チームの後援組織「横浜FCクラブメンバー」を新たに創設し、その社長の座には奥寺氏が就任した。


これが現在のメインスポンサーである小野寺グループと横浜FCの始まりである。

また、ソシオ制の断念によってフリューゲルスサポーター有志の意志との別れである。

この別れは''新生''フリューゲルスとしての終わりでもあった。

現在の横浜FCは、フリューゲルスとは全く別のチームだ。事実としても理念としても、フリューゲルスの後継を名乗る要素はどこにもない。

今の彼らが彼ら自身とフリューゲルスとが無関係であると伝えないことは歴史の改竄であり、横浜F・マリノスのサポーターが横浜FCを偽浜やえふし〜などと呼び忌み嫌うのはそういうところが原因なのだろう。

ここまで自分の学んできた範囲のフリューゲルスと横浜F・マリノス、横浜FCの関係性をつらつらと書きなぐってきました。

先程も書いた通り、繊細な問題であるが故に軽い気持ちで口を挟んでは行けないと思っています。

ただ、今の横浜F・マリノスを愛する、当時を知らぬ僕らが目を背け口を噤むのもまた違うなと思い、今回の記事で触れさせて頂きました。

間違いや訂正等あればご教授願います。


おまけに カノジョよりマリノス

ゲーフラ、某公式アカウントの方で見つかってしまいました。ゲーフラさえ、堂々と。

WBCで見かけた妻より大谷と、横浜に通い過ぎて当時の彼女の不満を貯めてしまった、自らの状況から閃いた悪魔の二番煎じなので、あまり胸を張れるものでもありません。

ただこの真面目な記事のおまけに、あのゲーフラを作ったしょうもない理由だけ述べさせていただきました。

ゲーフラ作りのきっかけを下さったSONOさんとミタンニさん、その他の方々へこの場を借りて感謝申し上げます。

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