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大人になんてなりたくない…

20240622 みんてつ#7
開催記録

場所:赤沢ミナトテラス
テーマ:子どもと大人ってどうちがうの?

まず最初に、みんなで問い(テーマから思いつく疑問)を出す時間をとった。

私の中では、疑問が浮かんでは消えて、こうかもしれない、いや、そうじゃないこともあるしなっていう葛藤の時間だった。

ポンポンと思い浮かんだ問いを次々に書き留めていく人もいれば、自分の中で一つの問いに照準をあてるように、問いを見極める人もいる。

例えばこんな問い。

子どもから大人へという一方向性で考えていいのだろうか。大人になっても、子どもに戻る瞬間ってあるんじゃないか。

子どもは大人になりたいのだろうか。

子どもみたいな大人もいるし、大人っぽい子どももいる。

大人になると自由になるのか。
いろんなことを知れば知るほど不自由になるのか。

そもそも、大人と子どもという2種類だけなのか。その分け方には基準があるのか。


対話中、その後も含めて私の思考を文字にしてみる

本人の目線(自意識?)での大人、子どもっていうのと、周りから見た大人、子どもっていうのがあるかも。

自分のことを、大人または子どもと思うこと、
人から見て、まだ子ども、もう大人なんだから〜と言われること
そこの差が大きいと苦しいかも。

子どもだからとか、若いからって理由で許されることってあるよね。
失敗とかミスは割とその側面が大きい気がする。

でも、反対に大人だから許されることもある。
こっちは、自分の判断でとか、許す許さないも含めて全て委ねられる感じかも。


子どもは「守られる存在」なのだろうか。

親の養育を受けて、学校や社会で教育を受けることで大人になっていくのだろうか。

大人にはならなくてはいけないの?

子どもは不完全なのだろうか。


1人の中にも、子どもな面と大人な面が共存しているはず。

だとしたら、子ども→大人のような一方向性では考えられないよね。


大人になるって、まるくなることなのかもしれない。

子どもは残酷だっていうことがある。
わがままって子どもっぽい印象がある。

でも、本当は、
大人だって残酷で、わがままなのかもしれない。

大人になると、その残酷さやわがままに気づいて、自分で上手に隠せるようになるのかも。

子どもは、純粋で、思ったこと感じたことを良い悪いとか判断なくそのまま表現するのかな。

表現できる。なのか、表現してしまう。なのか

本気になれる
とも言えるかも。

大人になると、
それを伝えたら、それが伝わったら
相手はどう思うだろうとか、
私はどう思われるだろうとか考えて
無難な形、みんなと同じ形を選ぶようになることもあるのではないか。

それが生きていく術なのかもしれないし、
でも、なんとなく寂しい気もする。

大人は他者のことも考えてるふりして
実は、もっと利己的なのかもしれない。


あー、私は大人になりたくないなぁと思う。

でももしかして
大人になりたくないって思うのは、
大人になってしまったからなのだろうか。


「みんてつ」のあり方について

私は、こういういろんな人が集まる場がどうあると、みんなが居心地よく過ごせるのかについて考えている。

私自身が、人と関わることは好きだけど、
人が集まる場所が苦手だったりする。

参加者と主催者の壁がない、その場にいるみんなでつくりあげる場って素敵だなぁと思うけど、
共通理解がないままで、いきなり好きにしていいよって言われたら、初めての参加者は戸惑うだけかもしれない。

その時間を楽しめる人もいれば、
どうしていいかわからない時間が不安に感じる人もいるかもしれない。

やっぱりある程度、この時間をみんなでつくりたいという思いは共有しておく方がいいのかも。

どこまで私たちが決めて、どこから参加者に委ねるか

そのときに集まった、その場にいる人としかつくれない(再現性のない)時間に価値があるとも思っている。

でも、私がここに参加する立場だったら、
結構不安で、居心地のいい場所とは言えないかも…

難しい。

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