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「知りすぎないこと」が時には大事

今から見る未来と、未来から見る今はちょっと違う。だから、“未来の正解”を固めることに、今時間を費やしすぎるのは、少しもったいない気がする。

情報を収集して考えることは大事だけれども、そのせいで思考が縛られ、自由に動けなかったり、選択肢を減らしてしまったりする場合もあるから。

知らないからこそ行動して打ち込めることがあるし、打ち込んだら自分が想像していた以上のパワーを発揮できることもある。

たとえば、私は学生時代から食料廃棄や人権、国籍などに関わる勉強会やイベントに参加しており、社会課題へ関心があったのだが、そこで「知りすぎること」が偏りと縛りを生むことを知る。

ある日、訪れた戦場カメラマンの展示で、世界ではあまりにも多くの人が意味のない死を強いられている事実を知る。当たり前だが、今報道されている国だけではないのだ。センソウが、完全に戦争として私の心に着地した瞬間だった。

ある日、アルバイトしていたパン屋さんで、シャッターが閉まると同時に大量のパンをゴミ袋へ捨てなくてはならない経験をする。商品が一瞬にしてゴミへと変わったのだ。”ショクリョウハイキ”が、完全に”食料廃棄”として私の心に着地した瞬間だった。

現実を知ろうとすれば知るほど、地球にはあまりにも解決しなければならない問題が多すぎて、自分の行いが本当に本当にちっぽけなことに思えてしまう。

そして、誰かを救おうとすると、他の誰かが苦しみ、助けられない部分だけを切り取って反対の意見が降り注ぐーー。

あの時の私は「知らないこと」があまりにも無責任で、あまりにも残酷だと感じ、「知らないことを知ろうとすること」に必死だった。

全部を知ろうとすると、当たり前だけれどすべてを深掘ることはできないし、その現実に目を背けたくなる瞬間がやってくる。まさにこの状況が社会課題が抱える難しい問題でもあるのだ。

しかし、情報を収集して知った”新たなる現実”に打ちひしがれていては、前には進めないだろう。

知ることは大事だが、時には知りすぎないことも大事なのだ。私は、”常識”や”あるべき姿”だけが増えて、自分で判断を下せなくなること、または”未来の絶対なる正解”を今定めてしまうことが何よりも怖い。

”知りすぎない”のは、決して現実から目を背けているわけではない。

まずは自らが知ろうと行動し、そこで出会った情報と現実のなかから選択を下し、今の自分がいる地点からの距離を把握し、できることか歩みをスタートさせるということ。

「知ること」と「知りすぎないこと」のバランスを上手く保ちながら、今の自分に責任を持って歩んでいきたい。

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