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「横浜山手秋ものがたり」 第一章

  1.秋の便り

  『秋バラを見に来ませんか?』

  横浜に住む伯母の薫から手紙が届いたのは十月の、ある

小雨降る午後のことだった。マリカは二階の自室の張り出し窓の

下でその手紙を読んだ。薄い水色の便せんに青いインクで綴られた

文字は細く繊細で、華奢な容姿を持つ伯母の印象そのものだった。

 『 親愛なるマリカちゃん

 お久しぶりです。ここ山手の丘の家に引っ越して来てから

早2年。お陰様でようやく落ち着きました。

 ずっと手入れを続けてきた庭の花々たちも無事育ち、

私の大好きな秋バラも見頃を迎えました。

 その甘やかな香りをそっと嗅いだ時、ふいに貴女の顔が

浮かんできました。そうしたら急に逢いたくなってしまって・・・

 そこでお誘いです。

今度の週末、秋バラを見に来ませんか?

久しぶりにお茶でも飲みながら、お喋り出来たら嬉しいわ。

それではお返事待っています。

                  杉澤 薫より 』

 手紙を読み終えたマリカは、すぐに卓上にあるスケジュール帳を

確認してみた。( 次の週末はええっと、土曜日はお母さんに

頼まれた用事があるけれど、日曜日なら・・あっ空いてる!!)

「やったあ、ラッキー!!」

 喜びの声を上げたマリカは早速返事を書こうと引き出しを

開けてみた。多分前に買っておいたステキなカードがしまって

あるはず・・・

「あった!これこれ、このルドウーテのバラのカードなら、

薫おばちゃんのイメージにピッタリだわ」

 著名なバラの挿絵画家の手による美しいピンクのバラが

描かれたカードを手に取って大きく頷いたマリカは、

椅子に腰掛けて改めて伯母のことを考えてみた。

 

 薫は父の実の姉であり、マリカの名付け親でもあった。

花の好きな薫は、初めての姪の誕生を知らされた日の朝、

庭にちょうどマツリカ(茉莉花・洋名はジャスミン)の花が

咲いたのを見て、「名前はマリカがいいわ」と

父に進言して決定したのだという。

 この、ちょっと変わってはいるがステキな名前を付けて

くれた伯母のことを、マリカは大好きだった。

 以来15年間、子供のいない薫は、マリカの事をことのほか

可愛がってくれていたのである。

(そういえば、ここ数年は逢っていなかったよな・・・?」

そんな事を思いながら、マリカはペンを走らせた。


 『 親愛なる薫おば様

  お手紙ありがとうございました。

お陰様で私は変わらず元気に過ごしています。

お誘いとても嬉しいです。お庭の秋バラ、ぜひぜひ見に

伺わせて下さい。来週は日曜日なら空いていますので、

おば様のご都合の良い時間をお知らせ下さい。

私も久しぶりにおば様とゆっくりお話するのを楽しみに

しています。

              速瀬 マリカより 』


 その日の夕食の席、マリカは両親にこの事を話した。

すると父親は少し神妙な顔になってこう言った。

「そうか?そういえば薫姉は横浜に引っ越したんだったな?

徹義兄さんが亡くなってから三年。当初はかなり

落ち込んでいた様だったから心配したが、その様子なら

すっかり立ち直ったようで良かったよ」

 父のその言葉に、マリカは三年前突然この世を去って

しまった伯父のことを思い出していた。

(そうだった。私ったらその事すっかり忘れてた・・・)

 箸を止めてその時の事を思い出そうとしていると、

今度は母親がこんな事を言った。

「でも、今度のその家は山手の丘に建つ、瀟洒な洋館なんでしょう?

そんな所で一人優雅に暮らせるなんて、ちょっと羨ましい気がするわ」

母親はそう言って、小さな溜息をひとつつくのだった。


  2.横浜へ

 マリカが指折り数えて待っていた訪問当日の朝は

あいにくの雨模様であった。

「あーあ、また雨かあ。最近はけっこう雨が多い

から参っちゃうよー」

 窓の外に広がる灰色の景色を見てガッカリしたマリカは

携帯で天気予報をチェックしてみた。それによると

午後からは時折り晴れ間ものぞくと言うことで、気を

取り直してこの日には絶対着て行こうと決めていた、

小花柄のワンピースに袖を通した。そして昨夜母親に

手伝ってもらって焼いた、しょうが入りクッキーの入った

箱を抱えて、傘をさして出掛けた。


 薫の住む横浜へは電車を一度乗り換えて、小一時間

ほどの距離である。みなとみらい線の中でマリカは

夕べ母親から聞かされた話を思い出していた。

それは薫の結婚にまつわる物語であった。

 伯母夫婦は熱烈な恋愛結婚で結ばれたそうだ。

ところがそのいきさつは、順調なものではなかった

らしい。


 二人が出逢った頃、薫はまだ高校生だった。

それに対し伯父の徹は十歳近くも年上で、しかもその

職業は外国航路の航海士という一般的ではない、

地に足の着かない種類のものだった。

そこで心配した両親は、二人の交際に反対した。

ところが未知の世界に強い憧れを抱いている薫に

とってそれは何の問題にもならないことで、

そんな意見には全く耳を貸さなかった。そして

薫は高校を卒業すると間もなく、彼の住む横須賀の

地に移り、同居を初めてしまったのだという。

 楚々としたおとなしいイメージの薫に、そんなに

情熱的で大胆な一面があったとは想像も出来なかった

ので、マリカはびっくりして目を丸くした。

「そ、それじゃあ二人の結婚は認められなかったって

いうこと?」

 驚いてそう質問すると、母親は首を横に振って言った。


「いいえ、それがね、幸いそうはならなかったのよ。

お相手の徹さんはね、忙しい航海の合間に少しでも

時間があると、薫さんのご両親(つまりマリカにとって

の祖父母)に宛てて、熱心に手紙を書き送っていたん

ですって。そして帰国した時には必ず手土産を持って

薫さんを連れて、お宅に挨拶に通っていたそうなの」

「へえー、それは誠実だねえ?」

「でしょう?その誠実さと真面目な人柄が信頼された

結果、遂に二人の結婚は許されることになったっていうわけ」

「なるほどー、それはなかなかいいお話だなー」

「そうなの。とにかく徹さんは温厚で優しかったから二人が

ケンカしたなんて話は、これまで一度も聞いた事はなかったわ。

それがあんな事になってしまうなんて・・・」

 あんなこと?  そうだ、その後伯父さんは事故にあって

亡くなってしまうんだ。

  それは今から三年前のこと。仲睦まじい夫婦の上に、

突然悲劇が襲ったのだ。

 長い航海から帰ったばかりのある日、舗道をのんびり

散歩していた二人に、暴走トラックがいきなり突っ込んで

来たのだ。その時伯父はとっさに伯母を突き飛ばして助け、

自らは命を落としてしまったのだという。


「薫さんの悲しみは、それは見てはいられないほど

だったわ。事故の後は抜け殻みたいになってしまって・・・」

「そうだったの?お母さん、私ちっとも知らなかった」

「あなたはその頃まだ小学生だったから、事故の詳しい

話は知らせなかったのよ」

「そっか?それはわかる。だけどおばちゃん相当

ショックだったろうなあ、すっごくかわいそう・・・」 

 マリカはクッキーの生地に混ぜ込むためのしょうがを

その時うっかり口に入れて、思わず顔をしかめた。 


 母の話は続いた。

「でもねマリカ、時の経過が次第に薫さんの悲しみを

癒やしてくれたの。そんなある日、知り合いの不動産屋さん

から連絡があって、今の横浜の物件を紹介されたんですって。

その場所は以前から二人が住みたいと考えていた憧れの場所

だったから、彼女はこれはご縁だと直感して、迷わず購入を

決めたそうよ。それまで長く住んでいた横須賀の家は売ること

に決めて・・・」

 そこまで黙って話を聞いていたマリカは、この時

思った。それはきっと天国にいる伯父さんの導きがあった

からなんだろうなと。そして薫おばちゃんは伯父ちゃんとの

思い出がいっぱい詰まった横須賀の家で、それからずっと

一人で暮らして行くのが辛すぎると考えたからなのかも

知れないと・・・

 ゴトゴト揺れる電車の中でそんな思いを巡らせながら、

マリカは今でもきっと心の中に深い悲しみを抱えているで

あろう伯母に、今日は少しでも楽しい時間を過ごしてもらえる

ように、精いっぱい明るく振る舞おうと決心したのだった。


  3.山手の西洋館

 間もなく電車は、目的地の終点、元町・中華街駅に到着した。

「ホームの進行方向の一番端の、6番出口に進んでね?

エスカレーターに乗って改札口を出たら、すぐ目の前にある

エレベーターに乗って屋上まで行くのよ。それが一番近道だから」

 

 マリカは電話で教わった通り、観光客とおぼしき中年の

女性達に混じってエレベーターに乗り込んだ。

 屋上階のボタンの横には”アメリカ山庭園”と書かれていた。

到着して扉が開くと、そこには美しい庭園が広がっていた。

「わあ、ステキねえ!!」

 女性達は一斉に歓声を上げ、早速それぞれの携帯を取り出して

シャッターを切り始めた。マリカはそんな女性達を尻目に、

庭園の出口に向かう小径を進んで行った。


 なだらかに続く道を抜けて門を出ると、その先は勾配の

ある坂道となっていた。そのまますこし進んで行くと、

道は二股に分かれていた。右側には明治の開港以来、

ここ横浜の地で亡くなった異国の人々が眠る”外国人墓地”

があり、左手の奥には”港の見える丘公園”がある。

 今日はあいにくの天気なため見晴らしは悪いはずだが、

休日とあって何組かのカップルがデートスポットとして

名高い、有名なその場所を目指して歩いていた。


 マリカは彼等とは反対に、墓地に沿った石畳の道を

歩いて行った。異国の人のものらしい十字架や珍しい形の

墓石を見ながら進んで行くと、左手に風見鶏のある趣ある

洋館が現れた。そこは”山手十番館”という老舗のレストランで、

その先の小さな庭園の向こうには、ここ山手の歴史的資料を

集めて公開している、古風な佇まいの”山手資料館”が見えた。

 ”山手本通り”と呼ばれているこの通り沿いを更に進むと、

道沿いには”山手234番館や”エリスマン邸”、"ブラフ18番館”

”べーリックホール”といった歴史ある西洋館の数々が出現する。

それらはどれも無料で一般公開されているとのことだが、

マリカはその手前にある”元町公園”と書かれた表示の前で一旦

足を留めた。そして薫から指示された目印の店の看板を探した。


 しばらくキョロキョロしていると、目印のその店は

道路の反対側にあることがわかった。

 ”えの木てい”

 道の生け垣に掛けられたその看板の奥には、まるでおとぎ話

の絵本から抜け出てきたかの様な、赤い屋根の可愛らしい

テイールームが現れた。

 「うわあ、何て可愛らしいお店なんだろう!」

マリカは思わず声を上げ、その建物に見とれてしまった。

 入り口の近くには店名でもあるえの木が立っており、

その周辺には幾つかのテラス席があった。二階建ての店の

窓枠は全て赤く彩られ、それがまたメルヘンチックな

雰囲気を醸し出していた。

 そばに立つ看板に目を向けると、そこには”オリジナルチェリー

サンド”というお菓子の絵があり、マリカは激しく引きつけられた。

 

 「ううっ美味しそう!だけど今は寄り道をする時間はない。

残念だけど今度にしよう・・・」

 やむなく諦めることにして、マリカは再び歩き始め

住宅街のほうに入って行った。


 「この辺りはさすがにおしゃれなお屋敷が多いなあ」

 家の表札を見ると外国人の名前も多く、昔外国人居留地であった

頃の面影が感じられた。その後樹木に囲まれた公園を抜けて、

マリカは薫から指示されていたもう一つの目印の所まで

たどり着いた。


 「家の入り口には大きなケヤキの木が立っているの。

そこに着いたら、その下にある木戸のブザーを押してね?」

 駅からずっと歩き続けること約二十分。

坂の多い山手の丘に建つ薫の家にようやく到着したマリカの

額には、うっすらと汗が滲んでいた。

 ホッとひと息ついたマリカはバッグからハンカチを取り

出して、汗を拭った。


 見上げるといつの間にか雲は切れ、青空が覗いていた。

高いケヤキのこずえの間からはチラチラと木漏れ日が

こぼれ、その下にある小さな木戸を照らしていた。

 木戸には”杉澤”と書かれた表札が掛かり、その下には

ブザーがあった。それを押してしばらく待つと、

 「いらっしゃーいマリカちゃん、どうぞそのまま入って

らして! 」

という薫のかん高い声が聞こえてきた。

そこでマリカは木戸を押し、中に入って行った。


 そこからは、細い小径が続いていた。

道の両側には見頃を迎えて花を咲かせた金木犀が

あり、独特の強い芳香を漂わせていた。

その香りを楽しみながら歩いていると、

「マ・リ・カちゃーん!」

向こうから、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ハッとして目を上げると、小径の向こうから小走りに

駆けてくる、伯母の姿があった。


 薫は紫がかった深いブルーの裾の長いドレスを

着ており、肩にはレースのショールを羽織っていた。

その身体は以前と変わらずに華奢で、その姿はまるで

昔の美人画に描かれたモデルのようであった。

 「おばちゃん、綺麗・・・」 

 近づいて来た薫にマリカは開口一番、そんな言葉を

口走ってしまった。


 「まあ、マリカちゃんったらいつの間にそんなお世辞を

言えるようになったの?」

 薫はそう言うと、ケラケラと声を立てて笑った。そして

マリカの姿をじっと眺めた後、

「マリカちゃんはちょっと見ない間にずいぶんと背が伸びた

のね?それにとっても健康そう!」

と言った。健康そう・・という言葉には、ぽっちゃりという

意味が含まれていることに気付いたマリカは、ポッと顔を

赤らめた。

「とにかく今日はようこそ!

遠くまで来てくれたお礼に、今日はとっておきのおもてなしを

用意してあるのよ」

 薫はそう言うとマリカの手を取って、家に向かって歩き出した。


 薫がまず連れて行ったのは、家ではなく庭のほうだった。

少し斜面になっているその場所には、絵のように美しい庭園が

広がっていた。

 つるバラと緑の植物で飾られたアーチをくぐると、

その先にはピンクや赤、黄色やオレンジといった、色とりどりの

バラの花が迎えてくれた。近づいて見ると雨上がりとあって、

花びらには透明の丸い水滴が所々ついていて、花たちを一層

輝いて見せていた。


 「雨が上がって本当に良かったわ。

せっかくお招きしたのにザーザー降りだったらどうしようって

もう夕べから気が気が気じゃなかったのよ」

 薫はそう言ってバラたちを愛しそうに一輪一輪、

点検するように見て廻った。そして見事なバラの情景に

すっかり魅せられているマリカに説明した。

 

 「秋バラはね、四季咲きの品種の中で特に秋に咲くバラの

ことを指してそう呼ぶの。だんだんと気温が低くなって行く

中でゆっくりとつぼみを形成し、時間をかけて咲いてゆくの。

そのためその色や香り、形の美しさは春バラをしのぐとも

言われているのよ」そうして花を手に取って見せてから、

「この純白の花がアイスバーグ、お隣の深い紅茶色のものは

ブラックテイーと言うのよ。それからこっちのクリーム色

のがクリームキャラメル、そしてそこにある鮮やかなオレンジ

色のものがええっと・・そう、スイートマーマレードというのよ」

と教えて聞かせた。


 「へえー、何だか美味しそうな名前ばかりだねえ・・・」

マリカが呟くと、薫は笑いをかみ殺しながらこう言った。

「マリカちゃん、あなたもしかしてお腹が空いているん

じゃない?」

 図星だった。

その言葉に即座に反応したマリカの腹の虫が、その時グーと鳴った。

 「フフッ、マリカちゃんは正直ね?いいわ、それじゃあ

早速お茶にしましょうか。ほら、あそこにテーブルを用意して

あるのよ」

 薫はそう言って後ろを振り返った。


  4.薔薇のお茶会

 そのお茶のテーブルは、コスモスが咲き乱れる先の

母屋の向かい側にあった。それを見た瞬間、マリカは

「わあっ」と声を上げた。

 真っ白いレースのテーブルクロスが掛けられた籐のテーブル

の上には、銀のトレイに載せられた美しい薔薇柄のテイーセット

があった。また、そのそばには小ぶりなバラのアレンジメントが

あり、その色はテイーセットのバラの色と揃えてあった。

 ケーキ皿の上に置かれたピンク色のナプキンにも、

よく見るとさりげなくバラの刺繍が施されており、極めつけは

ケーキスタンドに載せられた丸いケーキの上にも、砂糖をまぶした

バラの花びらが散らしてあることだった。


 「さあ、どうぞこちらに座ってて。私はお茶を煎れてくるから」

感激して立ちつくしているマリカに薫はそう言うと、

テイーポットを持って立ち去ろうとした。そこで慌ててマリカは

持ってきた手作りクッキーの入った箱を差し出して言った。

「これ、夕べ私が焼いたクッキーなの。お口に合うかわからない

けれど・・・」

 すると薫はパッと顔を輝かせた。

「まあ、ホントに?それはありがとう。

あら、生姜の香りがする・・嬉しいわ、ジンジャークッキーは

私の大好物なのよ」

 思いのほか喜んでくれた薫にマリカはホッとして、

白い籐椅子に腰を降ろした。


 それからの時間は、マリカにとって正に至福のひととき

であった。バラずくしの今回のテイータイムのことを、

薫は名付けて”薔薇のお茶会”と呼んだ。

 初めにカップに注がれたお茶は、ダマスクローズと呼ばれる

品種のバラから作られたローズテイーで、その優美な香りに

マリカはすっかり魅せられてしまった。またそれと共に勧められた

手作りのケーキの間には、何とローズジャムが挟まれていた。


 「このジャムはね、以前旅をした軽井沢のホテルで初めて

口にしてすっかり気に入ってしまって、以来特別に注文して送って

頂いている物なの。初めはお茶に入れて楽しむだけだったんだけれど、

そのうちお菓子にも加えてみたらどうかな?と思って試してみたら

これが大正解だったのよ。ほら、試しにひとくち召し上がって

みて」

 薫はそう言うと、慣れた手つきでケーキを一切れカットし

マリカのお皿に載せてくれた。

「うん、おばちゃんこれすっごく美味しいよ!」

 ひとくち食べるなり、マリカは声を上げた。

「良かった、気に入ってくれて。それじゃあ私はマリカちゃん

お手製のジンジャークッキーを頂いてみようかしら?」

 そうして薫は小さな貝殻型のお皿に載せられた素朴な形の

クッキーを一枚手に取ると、優雅な仕草で口に入れた。

「うん、とっても美味しい!よく出来ているわよ、

マリカちゃん」

 薫はそう言い、残った分は缶に入れてこれから少しずつ

楽しみに頂くわと言った。それから「あ、そうだ、あれを出す

のをすっかり忘れてた!」と手を叩き、空になったポットを手に

席を立った。そして間もなくテイーポットと共に小さなカゴを

手に戻って来た。その中に入ったお菓子の袋を見た瞬間、

マリカはびっくり仰天してしまった。

 そこには”チェリーサンド”と書かれていたからだった。


 「お、おばちゃん、これってもしかして、”えの木てい”

っていうお店のお菓子じゃない?」

「あらそうよ。マリカちゃん、よく知ってるわね?」

「だ、だってついさっきそのお店の前を通ってきたばかり

なんだもの。その時看板を見たらそのお菓子の絵が描いてあって

おいしそうだなあってすっごく気になっていたの・・・」

「まあそうだったの?だったらちょうど良かったわ。

さあどうぞ召し上がれ」


 カゴの中から小さな包みをひとつ手に取り、マリカは

早速口に入れてみた。その途端、サクサクとしたクッキー生地

の中の滑らかなバタークリームと、程よい酸味のチェリーの

風味が優しく広がった。

「うん、想像した通りにやっぱり美味しい!」

「でしょう?実は私もそのお菓子の大ファンなのよ。

亡くなった夫の好物でもあったの・・・」

「・・・!?」

 マリカはそこで思いがけなく他界した伯父の名を耳にして、

口に運ぶ手が止まってしまった。その様子を見た薫は、

気遣うように自分もチェリーサンドをひとつ手に取ると、

懐かしそうに亡き夫との思い出話を語り始めたのだった。


 「実はね、このチェリーサンドには夫と私が出逢った頃の

思い出があるの。このお店からほど近い場所にあるミッション

スクールに、当時高校生だった私は通っていたの。そこでよく

彼と待ち合わせていたのがこのお店、えの木ていだったの。

夫は甘い物には目がなくて、素材にこだわった手作り感覚の

このお店のお菓子にたちまちハマってしまって、そのうち

当時のお店のマダムにも覚えられてしまうほどの常連客にまで

なってしまったのよ」

「ウッソー!伯父ちゃんがそんなにスイーツ好きだなんて、

私ちっとも知らなかったー!」

「フフッ、そうでしょ?人は見かけによらないわよね?」

そう言って笑った薫は、そこで売られていたチェリーサンドを

手土産に、よく実家の両親を訪問していたのだとも語った。

 やはり甘党だった薫の父親は、それをとても気に入り、

それまで厳格だった態度を少しずつほぐすきっかけにもなった

のだという。


 「へえー、それじゃあこのチェリーサンドはおじちゃんと

おばちゃんを助けるキューピッド役にもなったんだね?」

「まあ、そういうことになるかも知れないわねえ・・・」

 薫はちょっと照れたように答えると、マリカのカップに

再びお茶を注ぎ入れた。そのお代わりのお茶を飲み始めた

時である。突然ポツポツと、雨のしずくが落ちて来たのだった。

 間もなく雨足は急速に勢いを増し、慌てた二人は急いで

テーブルを家の軒下に移動させ、その後椅子も運び入れた。

 その直後、雨は一気に本降りとなった。


「フーッ、危機一髪だったわねー?」

「ほんと、セーフだったよー」

 二人はそう言うと、顔を見合わせて笑った。

その後、食器類をキッチンに運び片付けを手伝った

マリカは、トイレを借りた。


  5.少女の絵

 薄暗い廊下の奥に、トイレはあった。

用を済ませたマリカは、廊下の壁の所々に何枚か

絵が飾ってあることに気が付いた。

よく見るとそれらの絵にはどれも、白いエプロンドレス

を着た金髪の少女が描かれているのだった。

 その少女には片側にエクボがあり、瞳の色は吸い込まれ

そうなほどの深いブルーをしていた。

 少女は長い髪をなびかせて走っていたり、花壇の中に

しゃがみ、少しはにかんだ様子でこちらに微笑みかけて

いたりした。

 キッチンに戻ったマリカは早速、これらの絵のことを

薫に尋ねてみた。


 「ああ、あの廊下の絵のこと?

実はあの絵はみんな、私が住む前にここに住んでいらした

画家の方が描いた作品なの。その方が亡くなられた後、

アトリエで見つかったものだそうよ。その方は独り身で

ご家族もなかったから、結局次の家主となった私に引き継が

れたというわけ・・ちょっとルノワール風の女の子が可愛くて、

私はとても気に入っているの。そうそうもし良かったら、

居間にもう一枚大きな絵が掛けてあるんだけど、それも見る?」

 そう聞かれたマリカは、もちろん即座に頷いた。


 通された居間は、いかにも古い西洋館らしいクラシックな

佇まいをしていた。太い梁のある天井に漆喰の壁、さらには

昔ながらのどっしりとした暖炉まで備わっていた。

 薫は部屋に入るとすぐに、暖炉のそばにあるテイファニー

タイプのランプを灯してくれた。するとマントルピースの

上に飾られた大きな絵が、ぼうっと浮かび上がった。

 油彩で描かれたその絵をひと目見るなり、マリカは

目を見張った。

 その絵に描かれた少女が立っているのは、石造りの塔の

上だった。三角屋根を持つその円筒形の塔の頂上部分には

楕円形をした大きな窓があり、その窓辺で少女は頬杖をつき、

遠くを見つめているのだった。

 その大きな瞳は印象的で、人を引きつける、何か秘密

めいた魅力が感じられた。


 「マリカちゃん、ちょっと寒くない?今温かいコーヒー

でもいれてくるわね」

 薫の呼びかけに、マリカは一瞬後ろを振り返った。

そして答えてからもう一度、絵のほうに目を向けたその時

だった。絵の中の少女の目が動き、自分のほうをジーッと

見つめているではないか!?


 「わあっ!!」

マリカは驚いて叫び声を上げ、その場から後ずさった。

身体は恐怖のあまりに硬直し、鳥肌が立つのも感じられた。

 その時、部屋のスピーカーから音楽が流れ始めた。

それは静かなチェロの調べで、その穏やかな曲調は、

瞬く間に部屋の空気を温かなものに変えて行った。

 ホッとしたマリカは恐る恐る顔を上げ、絵の中の

少女をもう一度眺めて見た。するとさっきは確かに

自分のことを見つめていたと思われた少女の二つの瞳は、

最初見た時と同じ位置に戻っていた。

「なあんだやっぱり気のせいか?嫌だなあ私ったら!」

 マリカはホッと胸を撫で下ろすと、ソファーにどっかと

腰を下ろした。やがて薫が熱いコーヒーを運んできて、

それを飲んだマリカの頭はスッキリとして、再び元気が湧いて

きた。そこでマリカは勇気を出して、あの絵のことを質問して

みることにした。


「ねえ薫おばちゃん、あの絵の中の女の子、さっき見た

廊下の絵とはちょっと違う雰囲気がするね?どうして塔の上

なんかにいるのかなあ?」

 すると薫は思いがけない事を言った。

「ああ、あの塔のことね?あれは多分、この家の裏にある

古い塔をイメージして描いたんだと思うわ」

「え、ええーっまさか!?あの塔がこの家にあるの?

一体どこにー?」

 マリカは驚きのあまり、ソファーから滑り落ちそうに

なってしまった。すると薫は笑いながらこう言った。

「そうよ、あるのよマリカちゃん。さっき外では気が付か

なかったのね?ほら、そこの窓をのぞいてみて、見えるから」

 

 そこでマリカは大急ぎで窓辺に走って行った。

そこから外を見ると、少し離れた場所に、確かに細長い形をした

石造りの奇妙な建物があった。しかしその姿は相当古くびっしりと

ツタ状の植物に囲まれている上、頂上部分は完全に崩れ落ちて

おり、絵の中の塔とはかなり異なる印象を受けた。


「だいぶ崩れてしまっているでしょう?だけどあれは

間違いなく昔造られた英国式の塔だと思うわ。気になって私も

色々と調べてみたのよ。そうしたらあれとよく似た形のものが、

イギリスやアイルランドには沢山あることがわかったの。

造られた時期は、恐らく明治から大正時代にかけてでしょうね?」

「エエーッそれじゃあ少なくとも百年以上は経ってるのかあ。

それにしても一体どうしてこんな所に塔なんかを建てたんだろう?」

 すると薫は首を横に振って言った。

「それは残念ながら私にもわからないわ。だけど当時、

この辺りはまだ外国人居留地だったでしょ?その頃の写真を

見てみると、塔のある西洋館は数多く存在していたようだから、

多分あの塔もそういったもののひとつではないかしら?」

 薫は自分の見解をそう説明した。

その話を頷きながら聞いていたマリカは、急に思いついて言った。


「ねえおばちゃん、もしそうだとしたら、あの絵の中にいる

ような異国の少女が、昔ここに住んでいたかもしれないね?」

 目を輝かせているマリカに薫は答えた。

「そうね?マリカちゃん。私もあの絵を見ながらそんな風に

思う事もあるわ。絵を描いた画家さんも、きっとそんな風に

想像を膨らませてあの絵を仕上げたんでしょうね?」

 二人はそこでもう一度振り返って、暖炉の上に掛け

られた少女の絵を見つめるのだった。


 チーンチーンチーンチーン!

その時、マントルピースの上に置かれた置き時計が4回、

高い金属音を打ち鳴らした。

「うわ、もしかしてもう4時?大変、私そろそろ帰らなくっちゃ」

マリカは慌ててそう言うと、窓の外を見た。すると幸いな事に、

雨はかなり小降りになっていた。

 そこで急いで身支度を始めていると、

「ちょっと待ってて!」と言って薫が部屋を出て行った。

そしてしばらくするとパタパタとスリッパの音を響かせ

ながら、手に何かを抱えて戻って来た。


「ハイ、マリカちゃん。これね、私が庭の花を集めて作った

ポプリなの。つまらない物だけど、今日きて下さったお礼に

・・・」

 薫はそう言うと、白い麻の袋に入ったポプリをマリカに

手渡した。それは細長い形をしており、表面には小さな花の

刺繍が施されていた。また片側には綺麗なピンクの細いリボン

が結ばれていた。

「それを枕元に忍ばせておくと、よく眠れるわよ。それに

良い夢が見られるかも・・?」

 マリカは薫の想いがこもったその手作りのプレゼントに、

胸が一杯になった。

「ありがとう、薫おばちゃん。私今までこんなに心のこもった

ステキなプレゼントもらったことないわ。だからこれから

ずっと大切にします!」

 感激して礼を述べるマリカに、薫は恐縮した様だった。

「いえいえマリカちゃん、お礼を言わなければならないのは

こちらの方よ。今日は雨の中遠い所をお出かけ下さって

ありがとう。お陰様で久しぶりに楽しい時間を過ごせたわ」

 薫はそう言ってマリカの頭を子供のように撫でた。


 それから二人は一緒に、傘をさして外に出た。

大きい傘の花がふたつ、金木犀の小径に並んで揺れた。

木戸の前にたどり着くと、薫は駅まで送ろうかと言ってくれた。

しかしマリカは一人で大丈夫と言ってその申し出を断り、

笑顔で別れの挨拶をした。


「薫おばちゃん、今日は素晴らしいなおもてなしをありがとう

ございました。お茶もお菓子もとっても美味しかったです。

それにプレゼントまで頂いてしまって・・・」

「こちらこそ、マリカちゃん。今日はとっても楽しかったわ。

これを機会に、今後はいつでも気軽に遊びにいらしてね?」

「はい、もちろんです。もしおばちゃんが嫌って言っても

押しかけて来ちゃいます!」

 マリカはそう言って笑ってから、ペコリと頭を下げた。

「ごきげんよう、マリカちゃん。ご家族の皆さまには

どうぞよろしくね?」

「はい、わかりました。それじゃあさようなら」

 それから小さく手を振って、マリカは再びもと来た道を

歩き始めた。


 帰りの電車の中で、マリカは夢心地で今日の出来事を

振り返った。数年ぶりに会ったのに、少しも年を取らずに

美しく、優しかった伯母。そして色とりどりのバラが咲き

乱れる見事な庭と、そこで繰り広げられた薔薇のお茶会・・・

(それにしても、居間に掛けられていた女の子の絵と

あの塔は不思議だったなあ。何だかとっても謎めいた雰囲気

がしていたし・・・そうだ、今度行った時にはあの塔を

絶対によく観察してみよう!)

 そんなことを思いながら目を閉じると、プレゼントされたポプリ袋

からほんのりバラの香りが漂ってきた。その香りに包まれたマリカは

いつしか心地良い眠りに入って行くのだった・・・


                      第二章に続く












 


 

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