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ルシャナの仏国土 白樺編 16-20


十六.青空

「ところで君、過労で倒れたんだって?!
 森の別邸の昼下がり、アレクセイとレオニードは二人で茶を飲んでいた。白樺林が、さやさやと音を立てている。
「あぁ、ちょっと頑張り過ぎたかなぁ。少しでも父上や兄上に追いつきたくて。」
「そうだったのか・・・。」
「今の僕じゃ、到底及ばない。皇帝に即位して、やっていけるかどうかさえわからない。そう思ってな。だけど、たかが勉強のし過ぎで倒れてるようじゃ、情けないよな。」
 アレクセイは寂しく笑った。

「アリョーシャ、皇帝陛下もクファシル殿下も確かに凄いと僕も思う。だが、君は君だ。君は、君のいいところを活かせ。結果は後から付いてくる。パーヴェルさんから聞いたぞ。木の精霊と話ができるんだって?凄いじゃないか!」
「ありがとう。しかしあれは父の功績だ。」
「それは違う。白樺の木は、他の誰でもない君を認めたんだ。僕はそう思う。だって、そもそも植物学者のパーヴェルさんがいるのに、白樺が助けを求めたのは森を初めて訪れた君なんだぜ。だけど、パーヴェルさんが、君がおかしくなったのではないかと疑ったから、仕方なく彼にも声を聞かせたんだろう。
 とにかく、君はファイーナ様に選ばれた皇太子なんだ。何故選ばれたか、振り返ってよく考えてみるんだな。」
 それだけ言うと、レオニードは黙って茶をすすった。

 同じ頃、湖畔宮殿ではファイーナとクファシルが彼について話していた。
「アリョーシャは、今頃どうしているかしら。レオをつけたから大丈夫だとは思うけど。」
「半年前からだったな、あいつが一生懸命に勉強し始めたのは・・・。ホルスに会わせて、刺激が強過ぎたかな。」
「彼がいないと、寂しいわねぇ。まるで宮殿全体の火が消えたよう・・・。」
「今では、あいつも僕たちの家族だからな。」
 クファシルは、よもやアレクセイが自分を目標に据えたとは思っていなかった。人は案外、自分自身のことはわかっていないものである。

 翌朝、アレクセイは執事のマクシームに尋ねた。
「マーカ、まさかここには木刀だの竹刀だのはないよね?」
「いえ、熊や狼が出ますので、木刀を備えておりますが、それが何か?」
「何本ある?」
「二本でございます。」
「それは良かった。持って来てくれないか?それから、レオを呼んでくれ。」
「かしこまりました。」
 レオニードはすぐに駆けつけて来た。
「どうした?」
「すまんな。最近立ち会いもしていないのを思い出した。相手をしてくれんか?」
「あぁ、そういうことか。だが覚悟しろよ。手加減はせんからな。」

 それから小一時間ほど二人は立ち会い稽古をした。アレクセイは息を切らしている。
「やっぱり腕が鈍ってるぞ、アリョーシャ!これくらいで息を切らしてどうする!」
 レオニードは容赦なくかかってくる。彼のほうは全く息が乱れていない。その彼に、アレクセイは懸命に打ち込む。
「まだまだ!・・・もっと来い!もっとだ!さぁ、かかってこい、レオ!」

 パーヴェルとマクシームも少し離れたところから二人の立ち会いを見ていた。
「す、すごい・・・。凄すぎますよ!」
「そうですね。私たちには遠く及ばない世界です。」
「皇太子殿下があんなに激しい立ち会いをなさるとは思ってもいませんでした。穏やかそうな方なのに・・・。あれではまるで警護官が二人いるようなものです。」
「それに、それをすべて受け止めているレオニードさん、彼も相当ですな。警護官が一人と伺って、いかがなものかと思っていましたが、あれでは確かにお一人で充分ですなぁ・・・。」

 やがて、レオニードのほうが先に木刀を収めた。
「今日はもうこのくらいにしておこう、アリョーシャ。また明日やればいい。」
「あぁ。付き合ってくれてありがとな。久しぶりに良い汗をかいた。」
 アレクセイも木刀を収め、二人で一礼した。稽古の終わりだ。
(僕はいつのまにか、あまりにも多くのことを忘れかけていたような気がする・・・。)

 翌日は、二人で話し合って合気道をやることにした。双方、剣を置き、レオニードは制服の上着を脱いだ。
「さぁ、いくぞ、アリョーシャ!」
「来い!」
 二人は組み合って技を掛け合った。だんだん子供の喧嘩のような感覚になる。
 やがて二人は、庭の芝生の上に並んで仰向けに寝転がった。空は青く、爽やかな風を感じる。
「ほんとはな・・・。」
「うん?」
「君も警察官になっていたら、一緒に働きたかったんだ。だけど、もういいや。きっとこれからもずっとこんな風になるだろうからさ。君は皇帝になっても、ここへ来て、今みたいに組み合ってくれるんだろう?」
「そうだな。」
 白樺がまたさやさやと音を立てた。

十七.星祭りの相聞歌

 七月、二つの衛星が重なり合って惑星ルシアの影に入って星空がはっきりと見える日に、ライランカは星祭りを迎える。人々は、夜になると外に出て、一年のうちでも比較的短くなっている満天の星空を見上げて愛でるのである。
 ライランカ王家でも、皇帝自らによる祝辞の後、国民の代表者たちを迎えての晩餐会が催された。そして、それら全ての行事が済んだ夜のこと・・・。

「ナディア、どこかでファーニャを見なかったか?」
 クファシルはファイーナを探していた。しばらく前から彼女の姿が見えない。
「ファイーナ様なら、先ほどテティス湖のほうに歩いて行かれたのをお見かけしましたが。」
「そうか、どうもありがとう。」
 星祭りの日、こんな時間にテティス湖で何を?・・・ライランカにはまだ不思議が多すぎる。

 一年前、帰化礼を受けた場所に来た。彼は靴と靴下を脱いで裸足で湖に近づいていった。やはり霧が出て来たが、帰化礼の時ほどではない。二百メートルくらい先にファイーナらしき人影を認めた。
 と、美しい声と琴の音色が聞こえてくる。(まさか、ファーニャ?)
 近づいていくと、歌っていたのはやはりファイーナだった。胸に琴を抱えながら弾き語りをしていたのである。湖のほうに向いていたため、まだ彼が来ていることには気づいていないようだ。
(なんて澄んだ歌声なんだ!初めて聞いた。・・・)
 湖のほうに目を向けて見ると、そこにはテティスがいた。

「お迎えが来たようですよ、ファーニャ。」
「えっ?」
 ファイーナが振り返る。クファシルの姿を認めると、彼女は顔を真っ赤にした。
「クファシル・・・。」
「お行きなさい。彼にこそ今の歌を聴いてもらったほうがいいわ。」
 テティスは消えた。

 クファシルが尋ねた。
「探したよ。テティスに何を聴いてもらってたんだ?」
 ファイーナのほうは下を向いたまま答えない。ふと手許を見ると、紙を一枚持っている。彼が何の気なしに触ろうとすると、彼女は慌てて隠そうとする。
「だめっ!」
「どうしたんだ?そんなに恥ずかしがって。」
 彼は紙を無理やり取り上げた。そこには全部で十六首の短歌が書かれていた。
「これは・・・!」

最愛と言える人にぞ抱かれたき桜も過ぎて紅葉も過ぎて
このまま出逢わなければと思えども逢えぬ哀しさ抱いて眠る
温めて抱きしめてとぞ言いたきがひとり身何も出来ぬ秋の日
出逢えたらいざ何もせず恥ずかしくなるらし我のもどかしさかな

君知らず愛遠ければしとねにて開放せし日々我も十八
求めても猶求めても指先は求むるものをただ遠ざける
ふるさとは君と言いたき宛もなき雪に埋もるる音ぞ哀しき
恋う人は最愛なくば恋ならぬ我を導く夢難かりし

少しだけ強引な彼求めたる恋なき我の夢の一片
そばにいてそのひとことが言いたくてされど人なき日々の永さや
我のみが小さく弱く映るごと鏡は見ずにひとひ過ごさむ
若き日は薄く紅引き歩きしを秋の夕べに重ねて遊ぶ

告げられて手に触れらるる夢を見る目覚めて清き雪積もりけり
愛しさよ全てをかけて肌で抱け君が思いのこと強ければ
かりそめのこの命とぞ思いけるそれでも絶えぬ胸の鼓動や
狂おしき君見たくあり我が夫よ我が身まもなく消えゆく定め

「これが君の歌・・・。」
「恥ずかしい!見ないで!お願い・・・。」
 彼女は五弦琴を抱えて宮殿へと走って行ってしまった。
 なんて熱い歌なんだ。これが君の内なる声だったのか・・・。僕に逢う前と、そして今の思いと・・・。テティスに初めて会ったとき、ファーニャと似ていると思ったのは、きっと二人が同じ心を持っていたからに違いない。
 クファシルは万年筆と手帳を取り出して、手帳に紙を乗せ、自分の歌を書き加えた。

わが妻よ永遠に愛しく光り増し君留まるは他ならぬ吾
君が夢聞きては思い増すばかり月の下にて素肌見まほし
湖に深く激しき君が沁む胸に抱えし琴よ収めよ
美しき君を抱いて日々過ごす今こそ吾の願い強まる

 彼女は宮殿の廊下の隅に腰掛けていた。五弦琴もすぐ脇に置いてある。
 彼が短歌を認めた紙を渡す。
「これが僕の返事だ。気に入ってくれるかな。」
「クファシル・・・。」
 歌に目を通したファイーナは、顔を真っ赤にした。
「君の歌、もっと聴かせてくれ。綺麗な星空に最高じゃないか。」
 クファシルは妻を抱き寄せ、口づけた。

「今夜は、本当に二人きりになれる所で過ごそう。森の中はどうかな?」
 暫くして、クファシルが言った。湖畔宮殿の敷地内には、森が一つある。場所柄、一般には開放されていない。更にその頃には、おおよその催し物が終わり、皆各々の部屋に帰って休んでいるものと思われた。
「そうね・・・。」
 ファイーナは彼の言葉の意味を理解して俯いた。互いに相手の手の温もりを感じながら、二人は森に向かった。

 彼らは森の奥深く、下草が綺麗に生え揃っているところに並んで座った。
「ところで、何故こんな時間にテティス湖で歌っていたんだ?いつもは夕暮れ前くらいだろ?」
 帰国後、ファイーナは週に三日ほど、夕暮れ時に五絃琴を携えて湖に行っていた。クファシルは、それも王族女性の務めだと聞かされている。しかし、その時は彼女一人きりで行かなければならないとも。それ故に、クファシルがファイーナの歌を聞いたのはその夜が初めてだったのだ。 

「星祭りは、異なる軌道を巡る二つの衛星が重なる日。二つの衛星が交わる時、それは男女の結びつきも意味する・・・。あるいは、婿星アルムが恋人イスカをみんなの目から隠して抱きすくめていると考えている人もいるわ。
 テティスは、愛されることなく命を落とした。愛の歌を歌ってあげると喜ぶの。お母様もそうしていたそうよ。」
「そして、それは歌う者の心そのものでなければならない。そうだね?」
「どうしてわかるの?」
「ただの民謡や伝承だったら、君があんなに恥ずかしがるはずはない。
 特に後半は、僕に対する君の思いそのものだ。『そばにいて』・・・あれはプロポーズを受けてくれたときに君が言った言葉だ。そうだとしたら、他も君だと判る。
 テティスと初めて会った時、彼女は君に似ていると思った。もしかしたら僕にくれたクファシルという名前も、テティスが生前実際に恋した相手の名前なのかもしれないよ。彼女からも、貴方はかつて愛した人によく似ていると言われたからね。」
「そんなことがあったの・・・。」
「僕たちはきっと、テティスにとっては過去に叶えられかった夢の再現なんだ。
 だけど、僕たちがこれからどうするかはまた全く別の話だ。君がもっと激しく抱かれたいと願っているのなら・・・。」
 彼は立ち上がって衣服を脱ぎ捨て、妻の衣服もわざと荒々しく毟|《むし》り取った・・・。

 だが、二人は知らなかった。その時に誰にも見つからなかったのは、テティスが二人の周りだけを森の最も奥に遠ざけ、周囲から完全隔離していてくれたからだということを・・・。

十八.五弦琴

 守護精霊テティスは、夜明け前に空間隔離を解いた。ファイーナとクファシルが起き上がって帰り支度を始めたのだ。
「ふぅ・・・もういいわよね。」
 精霊とて、長時間にわたって能力を使い続ければ疲れる。ましてやテティスはファイーナが発作を起こさぬようにと、自分の分身をファイーナの体内に入り込ませて心臓の鼓動を制御し続けてもいたのだ。彼女は湖面に寝転んで心身を休めた。
「でも、本当に良かったわ。今までは両方とも遠慮してたもの。ファーニャの命はあと二年しか持たない。あの二人には一点も悔やませたくない。」
 彼が推測した通り『クファシル』とは、かつてテティス自身が愛した男の名である。彼女は彼女自身の生前の夢を彼らに託していた。
 精霊となってさまざまな愛を見てきた。激しい恋、穏やかで優しい恋、結ばれぬ恋もあった。家族愛もいろいろあった。そのどれもが彼女にとっては見守ってあげたい対象に思える。
 しかし、いつにもまして、ファイーナは彼女自身に、篤史はかつての恋人クファシルにとてもよく似ている。その上、若くして落命を運命づけられた恥ずかしがり屋の女性と、聡明この上ないが堅苦しい話し方しかできない男性・・・。感情移入もしたくなるだろう。
「それにしても、あの二人は私とあの人にあまりにもよく似すぎている・・・。今だってまるで私自身が実際にあの人に抱かれて満たされ尽くされたかのよう・・・・・。まさかあの二人は?!」
 強い衝撃に煽られながらも、睡魔がテティスに襲いかかる。交わり疲れた処女のように、彼女は深く眠りに落ちた。

「この森は小さい頃、よく遊びに来ていたの。だから、帰り道は任せて。」
 ファイーナが案内がてら先に立って歩く。どうやら彼女は幼少期、森のあちこちに名前をつけて遊んでいたらしい。
 クファシルには、朝霧の中を進んでいくその姿がまるで光の中を舞い飛ぶ蝶のように見えた。
(やはり君は可愛い・・・。僕の宝物だ・・・。)

「おかしいわ・・・。『樫の広場』からずいぶん歩いて来たのに、まだ『清き泉』だなんて・・・。」
 ファイーナが呟いた。
「どうしたんだ?迷ったのか?」
「うーん、なんだかいつもの感覚と違うの。目印にしている物の配置が違っているような・・・。まるで違う森に来ているみたい。空間ごと配置が変わったというか・・・。」
 ファイーナは、ハッとした。同時にクファシルも気がついた。
「テティス・・・?!」
「君もそう思う?」
「えぇ、彼女なら空間を操れる。もしかしたら・・・。」
「でも、それならそれでいいじゃないか。ちょうど良い、この泉に浸かっていこう。」

 二人は無事に宮殿玄関まで帰って来た。警護官が二人に気づいた。
「あ、姫様とクファシル公卿殿下!今時分どうしてこちらに?」
「おはよう、ペーチャ。星祭りで空を見ているうちに、二人とも眠ってしまってね。」
 クファシルが言った。明らかな嘘である。だが、警護官も軽く受け流した。
「左様でございましたか。どうぞお通りください。」

 その日の夕方、クファシルは考えあぐねながら五弦琴を見つめていた。やがて、それを棚から取り出して、出かけようとしたところを、ファイーナに見つかった。
「さっきからずっと見てた。何か思い詰めてるんじゃない?それに、その五弦琴をどうするの?」
 彼は、しばらくファイーナを見つめてから答えた。
「テティスに訊きたいことができた。けれども、それは君には辛い内容も含まれる。どうしたものかと思ってね。」
 ファイーナには、それだけで話の内容が予想できた。
「私なら大丈夫よ。もう覚悟はできてる。一緒に連れてって。」
「ファーニャ・・・。それじゃ行こう。」

 湖に霧が垂れ込める。テティスが姿を見せた。
「今日は二人で来ましたね。」
「テティス、昨夜はありがとう。僕たちをずっと守ってくれていたのだろう?」
「分かってしまいましたか。」
「あのあと、森の中の空間がいつもと違うと、彼女が気がついた。そんなことができるのは、貴女だけだ。」
「あら、しまった!空間隔離は解いたはずだったけど、あとは元に戻さないまま眠ってしまったのね。ごめんなさい。」
「私からもお礼を言わせて。テティス、本当にありがとう。」
 ファイーナが言った。クファシルが一歩前に出る。
「それから、今日はもう一つ話がある。・・・この五弦琴、僕が弾くのは駄目かな。」
 ファイーナが思っていた通りだった。クファシルは、彼女亡き後の話をしに来たのだ。
「ファーニャの歌声のようなわけにはいかない。僕は男だし、取り立てて声が甘いわけでも、上手いわけでもない。そもそも歌ったことがない。しかし、・・・」
 彼は一瞬言い淀んだ。
「しかし、ファーニャのあとは誰が貴女に歌を聴かせるんだろう?アリョーシャにはまだ妃の宛てがない。これからあと残された時間は少ない。そうすると、彼女から教わって語り継ぐのは僕しかいないんじゃないか・・・。
 今日、この話をしに来るのに、ファーニャには黙って来るつもりでした。でも、彼女も今の話の内容を予測してついてきてくれたのだと思うのです。
 テティス、しばらくのあいだは僕の歌でいいですか?」
 クファシルは真剣だった。横からファイーナが涙を抑えながら見つめている。
 テティスは、微笑んで言った。
「クファシル、私がここで五弦琴と一緒に聴かせてもらっている歌は、魂の歌声なの。上手い下手は関係ありません。心が澄んでいればそれでいいの。私は、みんなから心を聴かせてもらっているだけ。
 貴方も、心の綺麗な人。私は喜んで貴方の歌声を聴きましょう。ファーニャとの相聞歌、私とても嬉しかったですよ。
 ファーニャ、まだ時間はあるわ。時には夫婦二人で歌って。」
 微笑むテティスを前に、ファイーナはとうとう堪えきれずに泣き出した。クファシルが抱きとめる。
「ごめんなさい。泣かないつもりだったのに。」
「僕のほうこそ済まない。やはり君を連れてくるべきではなかった。だけど、今度から二人で来よう。相聞歌を一緒に作って歌うんだ。」
「うん・・・。」
 気がつくと、テティスの姿は消えていた・・・。

十九.矛盾する苦悩

 ファイーナ姫が前にも増してますます美しくなったらしい・・・。街中でそんな噂が広まりだしたのはその年の秋だ。
 アルティオ帝とアレクセイもやはり同じように感じていた。笑顔が多くなり、周りに父帝とアレクセイしかいない時、ファイーナは時に子供のように甘え、クファシルがそれを柔らかく受け止めている様は、微笑ましい以外の何ものでもなかった。

 最近になって、ファイーナはクファシルに五弦琴を教え始めたらしい。そうすると、また夫婦二人だけで過ごす時間が長くなる。
(やっぱり、姫は兄上とご一緒の時が一番いいんだ・・・。)
 アレクセイの心は、ファイーナの幸せを願う気持ちと諦めの気持ちの狭間で揺れていた。表立って口調は変えられても、内心では、ファイーナへの思慕が抜け切れていなかったのだ。確かに家族だと思ってもらうのは嬉しい。そのうちに慣れさえすればとも思う。しかし・・・。

 それに、ファイーナの幸せそうな様子を見ると、自分の将来の愛のあり方にも不安を感じる。
 いつかは自分も結婚するだろう。しかし今は相手の影さえ見えない。一体どんな感じの女性で、いつどこで知り合い、どのような形で結ばれるのであろうかと思うと、不安になるのだ。

 そんな、ある金曜日の夕食前のことだ。
 アレクセイは、宮殿内の警護官詰め所に併設された武道場から帰ってきて、珍しくうとうとしていた。
 警護官詰め所は、門から湖畔宮殿に向かう道のあいだにあって、宮殿を守る形になっている。詰め所は宮殿を守り、宮殿はテティス湖を守る・・・つまり湖は二重に防護されているのだ。
 その詰め所で、アレクセイは毎週火曜日と金曜日の午後を過ごすようになっていた。彼自身、剣の腕を鈍らせたくなかったし、またがむしゃらになっている時が心地よいことに気づいたからだった。

(アリョーシャ・・・アリョーシャってばぁ、ねぇ起きて・・・)
 彼は夢うつつから目を覚ました。自分を呼ぶ声がする。聞き覚えのあるその声は・・・テティス!
(お話があるの。湖まで来て。)

 彼はすぐに駆けつけた。
「テティス、話というのは?」
「ファーニャたちのことよ。彼女がクファシルに五弦琴を教え始めたのは、私に歌を聴かせ続けてくれるためなの。彼、クファシルはファーニャ亡き後のことを考えて、自分が歌ってもいいのかと尋ねに来てくれた。ここに来るときに彼女に見つかって一緒に来たけど。
 今の貴方に、この話は酷かもしれない。ファーニャも泣いていたわ。でも、彼女が去るその日はやがて来てしまう。そんな二人の思いをどうか分かってあげてちょうだい。」
「・・・」
 アレクセイは言葉を失った。兄上は、姫の役割を引き継ごうとしている。姫もそれに応えようとしている。そんなことも知らずに、自分はなんて愚かな悩みを抱え込もうとしていたのだろう・・・。
 テティスは優しく微笑んだ。
「大丈夫よ、アリョーシャ。貴方にも、良き伴侶となる女性と出会える時が来ます。あまり考え過ぎないで。貴方は何かと考え過ぎるのよ。ま、それも貴方らしい、良いところなんだけどね。」
「ありがとう、テティス。」
 そう、その時までのことなんだ。僕には時を待てば済むことでしかない。・・・彼は自分に強く言い聞かせた。

 警護官たちは、最初は戸惑いや遠慮があったものの、皇太子の腕前がとてつもなく上で、いくら本気で打ち込んでも組み合ってもびくともしないことが分かると、進んで稽古相手を申し出てくるようになった。宮殿と湖を守るために集められた者たちだけに、みな精鋭の警官ばかりである。向上心もとても高い。
「私はここに来る前は、君たちと同じ警察官だったんだ。まだ巡査だったが。それに、私と同等以上の技術を持つ警察官が二十人、そのほとんどがオルニアにいる。」
「そうだったんですか。」
 所長のドミトリー・ザナコフ警視をはじめ全員が話に聞き入る。アレクセイは、警察学校卒業までの経緯をかいつまんで説明した。
「近いうちに、共にライランカに来た友との打ち合い稽古を見せたいと思っている。彼の方が腕は立つのでな。参考にするといい。」

二十.国際交流会議

 クファシルは、最近アレクセイが何かの折にふと寂しそうな表情を見せることに気が付いた。どうしたんだと尋ねてもその都度返事をはぐらかすばかりだ。

 レオニードに尋ねても、それはただ時間を要する悩みかもしれないと答えるだけで一向にらちがあかない。
(アリョーシャがふさぎ込むとしたら、おそらくあれしかない。しかし、まさかそれを姫様と公卿殿下にお話しする訳にもいかないしなぁ・・・やはり伏せておこう。)

 クファシルは考えを巡らせる。
(ひょっとしたら、まだ僕たちには話せないことがあるのかもしれないな。いくらこちらから家族だと言ったところで、本来は目上の人たちだとアリョーシャがまだ考えているとしたら?アリョーシャの将来のために、ここは、他のきょうだい達の力も借りることにしよう。)

 クファシルは、公務がない日を待って、環境局長官イリーナ・タラノヴァを呼び出した。ファイーナも同席している。
「お兄さま、何かありまして?」
「うん。実はな、アリョーシャが最近ふとふさぎ込むことがあるんだ。」
 イリーナは真剣な顔になった。
「そうですわね。私も何となくそんな気がしていました。」
「そこで、だ。他の子達とも出来るだけ早く実際に話をする機会を作ってやりたい。
 今度、国際交流会議があるだろ?その時に、何気なくお膳立てをしてやって欲しいんだ。手紙だけではなく、実際に会って話をすれば、少しは意識が変わるかもしれん。
 僕は外交の場では表立って動けん。それは、環境局長官のお前にしか出来ないことなんだ。」
「つまり、アリョーシャが他の子と実際に会うための手配をすればいいのね?そうねぇ、来られる可能性があるのは・・・ダンとユルケ、ムーム、ということになるかしら?でも、シャンメイとホルスは無理ね。また別の機会にしましょう。」
「さすが我が妹、話が早い。」
 クファシルとイリーナは微笑み合った。
「それにしても、アリョーシャは何を言えないでいるのかしらね。」
 ファイーナは首をかしげる。
「お義姉ねえさま、それが言えないから、アリョーシャは悩んでいるのではないですか?訊くだけ無駄です。」

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