見出し画像

ルシャナの仏国土 警察学校編 16-20


一六.剣の道

 一二時になると、地元出身者はシャイナニ教の礼拝室で祈りを捧げ、その後にほかの訓練生たちと食事をとった。午後からは体育系の訓練を受けるため、やや軽めにしておくようにとは指定されていたが。

 現在の惑星ルシアでは剣士の資格が統一され、一級から五級までおのおの白・紫・青・赤・緑とサーベルの柄の色が決められている。オルニアだけは独自に発展した片刃による剣道があったが、それもサーベルと同等の等級が割り振られた。セルジオ・ツジムラは白い柄のサーベルを腰に差し、滝田光昭もオルニア剣道ながら白い柄の刀を帯びている。
 光昭はオルニア警察きっての剣豪の一人である。彼はまず訓練生全員に念入りなストレッチと毎日一里の走り込みを課した。
「中には走り慣れている者もいると思うが、オルニア剣道の基本は足腰なので、走り込みは毎日欠かさずおこなってもらいます。たかだか一里と侮るなかれ。雨の日も風の日も走ります。宜しいですな。では、私についてきてください。」
 光昭の後を、セルジオ・ツジムラが、今井はるかと春野亜矢が続いた。ジェシカ・ティスードと神崎リュウ、ほかの訓練生たちもみな警察官になる日のためにある程度の体力は蓄えてきたとみえ、遅れずについて行く。
 ある意味では、藤原景時だけが走り込みに慣れていない例外といえよう。コース半ばから息をぜいぜい言わせていた。
「どうやら君は教え甲斐がありそうだね。」
 光昭が声をかける。
「申し訳ありません。僕はずっと絵ばかり描いてきたものですから。」
「ほう、そういえば今回の訓練生のなかには美大卒がいるとのことだったが、君がそうか。なに、心配することはないよ。僕たちが一人前に育ててあげるから。」
 そう言って彼の肩を軽くたたいた。

 彼は一からのスタートだからまだよい・・・光昭は元くノ一の二人のことを気にかけていた。彼女たちが幼い頃から身につけてきたのは殺戮の剣。それを警察官の剣術に矯正しなければならない。
 いや矯正というのは違うな・・・。彼女たちに一旦完全な警官の剣道を覚えてもらってから、今度は僕自身が忍びの技を習得して、新しい技、新しい身のこなし方を作り出すことになる。いわば全ての者たちが何らかの変化をしていくのだ。
 ルシャナの「星法の書」にもこうある・・・

教える者、施す者は、実は自らもまた教えられ、施される者でもある。全ての者が互いに他の全てから影響を受けて変わっていく。人はそれぞれの瞬間に出会い、やがて散っていくもの。そのあとにはその人と出会ったという記憶と、ふれあったことによる影響、変化が残るのだ。

 ・・・と。

 それから模範演技として、光昭とサーベルの剣士・セルジオの竹刀による他流試合が行われた。流派は違えど、剣の道は同じである。剣豪同士の立ち会いのスピードと正確さ、安定感が見る者を圧倒する。
「では、これから基本の打ち込みの練習をしばらくは続けてもらいます。その後に二人一組になっての練習に切り替えるから油断なきよう。特に腰の動きを見ていきます。」
 各自が見よう見まねで竹刀を上から下へ打ち下ろしている中を光昭が回り、「これはここをこうして。」という具合に指導していった。
 元くノ一の二人、はるかと亜矢は模範的な素振りをしている。どうやら僕の考えは間違っていたようだ、と彼は思った。忍びたちは剣道の基本を身に付けていて、それに忍び独自の技を臨機応変に繰り出していたからこそ、名だたる剣士たちが忍びに勝てなかったのではないだろうか・・・。
「それでは本日はここまで。みんなほぼ動きはいい。始めにしてはよくできたと褒めておきますが、実戦にはまだまだほど遠い。精進して下さい。」
 彼がこう言って講義を終わらせたときには、ほとんどの者が汗をかき、息を切らせていた。

 やがて武道場から人がいなくなった頃、セルジオ警部が近づいてきた。
「やはりみんな他流試合は初めて見たようですね。たとえ見たことがあったとしても、白い柄の剣士は限られている。私にとっても貴方ほどの強敵は初めて。よい機会をいただいた。」
「こちらこそ。サーベルの講義の時はどうぞお手柔らかに。・・・ところで、加賀警視正とソフィア警視のお姿がなかったようですが?」
「加賀警視正は校長として事務方のお仕事もおありでしょう。そして、これは貴方が異動してくる少し前に講師一同が加賀警視正から伺ったことですが、ソフィア警視にはドクターストップがかかっているそうなのです。だから体育系の訓練はできない。どうやらどこかご病気のようですね。」
「そうだったのですか。」
「警視ご自身は、訓練にも参加されたいようなことはおっしゃっていましたよ。悔しいけれど、現実にはもう勝てないと。」

一七.使命

 一ヵ月後、午前の講義は環境設計学から法律学へと切り替わった。講義期間は三カ月。憲法から始まって国際法、刑法と、徐々に細かな項目になっていく。
「為政者が守るべき法が憲法です。みなさんも知っているように、平和を維持し、どの国の市民に生まれても平等に安全に幸せに暮らせるように取り計らうために皇帝が置かれているのですが、その皇帝が万が一にも憲法を変えて国を私物化するようなことがあれば、市民はそれを阻止しなければなりません。それは市民の権利であり、義務でもあります。」
 そう語るソフィアが自ら異国の地に後継者を求めて来たのも、実はこのためだった。
 自国の国民は全員が彼女のことを知っている。みんなが表の顔しか見せていない可能性だってある。であれば、顔が知られていない異国から後継を探したほうが良いのではないかというのが、彼女と父・アルティオ帝が導き出した結論だったのだ。

 宮廷医務官の一人で内科医のナディア・サディラは、皇女の体調を案じて渡航に反対したが、その決意を知るとオルニアの医師に紹介状を書いてくれた。
「もうお引き止めすることは叶いますまいが、どうかくれぐれもお身体にさわるようなことはなさいませぬよう。当地の山形かなみ医師は私が知る中でもトップクラスの医師です。必ずお訪ね下さい。」
「わかりました。ご心配かけてごめんなさい。必ず山形医師にお会いします。」

 山形医師が勤める朝川総合病院は、宮殿のある首都・湯井岡市の隣、朝川市の中心部にある。
オルニアに着いて一週間後、水曜日午後の総合病院にソフィアの姿があった。
「こんにちは。初めてお目にかかります。担当の山形です。サディラ医師からお話は承っております。ソフィア様、でしたね。」
 かなみは軽く会釈しながら言った。歳を重ねて幾分かふくよかになりかけている、そんな印象だった。
「はい、どうかよろしくお願いします。」

 グナンリラ病は、十万人に一人という稀な発生率で現れる病気である。
 症例が極めて少なく、治療法もまだわかっていないが、発症すると心臓の動きが徐々に遅くなり、やがて停止してしまう不治の病とされている。
「幸い、現在はさほど心配のない段階のようです。サディラ医師と同じ処方をしておきますが、二週間に一度は、必ず来て下さい。」
 かなみにとっても、この病と向き合うのは初めてのことであった。患者が誰かということよりも、この稀な症例を如何に悪化させずに持たせるか、そのことに真剣になるべきだと彼女は考えていた。
 少しでも多くの患者と、多くの症例と向き合って、研究を進め、さらに多くの患者を助ける。それこそが医師の務めだ。

 それ以来、ソフィアは隔週水曜日の午後、欠かさず通院している。副校長としての仕事は他の時間内に全て終わらせ、体育系の訓練の時間内には帰る、そんな形だった。
(もし健康体のままだったら、みんなと一緒に汗をかけるのになぁ・・・。)
 幾度そう思ったことか。だが同時に思うことがある。病にならないでいたら、自分は国を出ることもなく、今は共に暮らしている人々と出会うこともなかったであろう。もしかしたら将来生きる人々ために、自分はそういう経験をするように位置付けられたのかもしれない・・・。

一八.似顔絵

 警察学校はひと冬を越した。訓練生たちも毎日の走り込みや受講でだいぶたくましく精悍な顔つきに変わってきたように思える。
 ソフィアの法学講義は厳しく、毎週末の復習テストで成績が悪かった者は、日曜日に補習を受けた。そういった努力が実り、法学の講義が終わる頃には、法学の知識での脱落者は一人もいなくなっていた。

「ソフィア、お疲れ様。」
 法学の最後の講義が終わった日の夕方、篤史が言った。
「みんな良い顔になった。精悍な雰囲気が滲み出てきたように見えるよ。」
「そうですね。私の法学は終わりました。あとは、他の講師の方にお任せします。それに、みんなの警察官としての自覚がどこまで芽生えるかというところもありますね。」
「確かに。」
 彼はふと息をついた。彼は男子寮を、彼女は女子寮を抜き打ちで見回っている。大方の講習生たちはきちんと整理整頓が出来ているのだが、卒業までは決して気を抜けない。この間も、景時が画材を洗い場に出しっ放していたのを注意したばかりだ。
「画材を持ち込んでいても構わないが、出しっ放しはいけないな。君がいないあいだに、誰かが怪我をして傷口を洗い流しに来たらどうするんだ。邪魔になるだろ。洗い場だけではない。すべてのものがあるべき場所にあるべき姿でなければ、誰かが困るのだ。
 そして、完璧に近い形でそこにあることこそが美しいということなのではないだろうか。君は恐らくずっとキャンバス上で美を追い求めてきたものと思う。これからは、世界全体をあるべき姿、美しい姿に保っていくんだ。それが我々警察官の任務なんだよ。」
「申し訳ありません。考えが到りませんでした。」
「以後、気をつけるように。」
「は。」
 注意し終わってから、篤史は思った。
(あれ?僕は父さんと同じことを言った。・・・)

「そういえば、君は絵描きだったね。ひとつ頼まれてくれないか?」
「はい。何でしょう?」
「実は、春野君には生き別れになっている許嫁がいてね。その人の似顔絵が欲しいんだ。」
「分かりました。やってみましょう。まずは亜矢さんから特徴を訊かないと。」
「ありがとう。それじゃ、土曜日の午後に第二会議室に来てくれ。」

 土曜日・・・景時が指定の部屋に入ると、そこにはすでに篤史とソフィアが待っていた。
「どうもありがとう。お話は加賀警視正から伺ったわ。亜矢さんも、すぐに来るはずだから。」
 ソフィアが言った。
「それにしても驚いたよ。これが君が描いた絵なんだって?まさしくソフィア警視にそっくりだ。よく出来ている。」
 篤史が見ているのは、景時がソフィアと出会った時に描いた似顔絵である。
「あのときの絵ですね!まだ持っていて下さったんですか?」
「当たり前じゃない。記念だと言ったでしょ。」
 ソフィアは微笑んだ。その時、亜矢が入って来た。
「お待たせしまして。」
「まだ約束の時間ではないが、君が最後とは珍しいね。何かあったのかな?」
 篤史が尋ねた。
「いえ。ただアウロラが愚図っただけです。」
 アウロラというのは、警察学校で飼育している犬の名である。訓練生たちが毎日交代で散歩させているのだ。
「そうか。それじゃ始めてもらおうか。藤原君、あとは頼んだよ。」
 篤史とソフィアは、そのまま部屋を出た。

「それでは亜矢さん、顔の輪郭から伺いますよ。だいたい幾つくらいの方ですか?髪型は?」
 景時が訊く、亜矢が答える・・・その繰り返しが二時間くらい続いた。
「ありがとう、画伯。とてもよく似ているわ。・・・とっても・・・。」
 気丈なはずの亜矢が涙ぐんでいる。
「愛しておられるのですね・・・。この方を・・・。」
 景時は察した。
「えぇ、とっても!」
 亜矢は、はっきりと言った。
「僕もお手伝いします!同じ絵を何枚でも描きます!みんなに配りましょう!」
「ありがとう・・・。」
 亜矢は、景時の手を両手で握った。
 訓練生だけではなく、事務員や地元商店街の掲示板まで、五十枚もの似顔絵が描きあがるまでには半月を要したが、景時はやり抜いた。毎朝早く起きて、だいたい五枚ずつ描いたのだ。
 勿論亜矢からは、何度もお礼を言われた。
「よくやってくれたね。」
 篤史からもソフィアからも褒められた。
「いえ。幾つ描いても、結果が出なければ。みんながそれぞれの赴任地で貼り出してくれるとか。」
 景時は言った。だが、篤史や光昭は彼を見直した。自分以外の誰かのために、寝る間も惜しんで半月も同じ絵を描き続けた、心優しく強い男がここにいたのだ。

一九.暁の食堂

「実は、今度の日曜日、紫政帝陛下から昼食会にお越しいただきたいとのことなのだが。」
 周りに誰もいないことを確かめて篤史は言った。
 ソフィアは少し考えてからご招待をお受けしますと返事をした。そういえば紫政帝陛下とはしばらくお会いしていない。陛下も警察学校の様子や、あるいは自分の病状のことを心配して下さっているのかもしれない。

 日曜日、篤史とソフィアは学校から少し離れたところで落ち合って宮殿へ向かった。
 紫政帝は明るいテラス席で二人を出迎えてくれた。
「や、今日は新郎新婦お揃いでお出ましだね。」
 皇帝はニヤッと笑った。実際、若い男女二人が、お揃いの警察官姿で登場してくる様は、彼にとって初々しい以外の何者でもなかった。
「陛下、そんなお戯れを。恐れ多いことにございます。」
 篤史はたじろぎ、ソフィアは顔を赤らめた。
「そうかな。君たち二人はどこからどう見ても・・・。まあいい。さて、それではゆるりと警察学校の近況を聞かせてもらおうか。皆は慣れたかね。」
「はい、訓練は順調に進んでおります。訓練生たちもだいぶ変わってきました。今は、法学と剣道の講義が終了し、科学と合気道の稽古に切り替えるところです。このままでいけば、次の資格試験には、ほぼ全員が巡査に合格するかと。」
 篤史が報告する。
「そうか、順調に進んでいるようで何よりだ。・・・それと、ファイーナ姫、大事はありませんか。医師の診察は受けているそうですが。」
 やはり案じて下さっていたのか、とソフィアは思った。
「どうもありがとうございます。おかげさまで無事に日々を過ごしております。紫政帝陛下には過分なるご配慮をいただき、感謝申し上げます。」
 それから三人は今後の講義の予定や定期的な打ち合わせの日取りなど様々ことを話し合った。
 その間、篤史はちらちらとソフィアの顔を見た。今さら紫政帝から言われるまでもなく、いつかららか彼にはソフィアが特別な存在になっていたのだ。
(だけど、この人は隣国のお姫様・・・そんなわけにはいかないじゃないか。)
 そう思っていた。

 その翌朝。
 朝のジョギングに出かけようとして食堂の脇を通りかかると、ソフィアが一人で座っていた。折から強く部屋の中に差し込み始めた朝日が彼女の顔を照らす。一瞬、涙が見えた。
 篤史は思わず声をかけた。
「ソフィア?」
「あ、加賀警視正。」
 彼女は慌てて涙を拭おうとして下を向いた。と、不意に暖かいものに体が覆われた。篤史が彼女を抱き寄せていた、
「僕の胸ならいつでも貸す。泣きたい時は泣いていいんだ。」
「え、でも・・・。」
 彼女がそう言いかけたとき、篤史は彼女の腰を抱えながら、もう片方の手でその頬に触れて唇を吸ってしまっていた。
(僕は一体何をしているのだ。だけど・・・もうこの人が誰かなんて関係ない・・・!)
 彼は心を決めた。
「ソフィア、ここでは君も私も一警察官でしかない。お互い恋に落ちても構わないだろう。・・・」
 ソフィアは、驚いて相手の顔を見た。男の顔をこんなに間近に見るのは、父親以外初めてだった。それも、明らかに父親とは違う表情だ。優しく、しかしこちらに何かを求めて止まぬ情熱を秘めた顔が、自分を見つめている。
 彼女は吸い込まれるように男の胸に包まって泣いた。・・・

 二人の抱擁はほんの二十分ほどだったが、その間にその光景を見てしまった人物が二人いる。
「あ・・・。」
 その日も似顔絵を描くために早起きして 廊下を通りかかった景時は息を呑んだ。誰かに不意に肘を掴まれ、廊下の端まで引っ張っていかれる。
「他人恋の道行きをそんなに見ているなんて野暮なことするもんじゃないわよ、画伯。」
 今井はるかが立っていた。
「あ。やだなぁ。僕はただ通りがかって、唖然としていただけです。」
「ま、私もそうなんだけど。」
「でも、あのお二人が・・・。あの、その、・・・。」
「無理もないわ。私だって驚いてるもの。でも、お似合いなことは確かね。貴方も薄々感じてたでしょう?」
 確かにそうだ。校長と副校長、警視正と警視、二人が一緒にいる時間もかなりあって当然だ。こうなるのはごく自然なことだったのかもしれない。

 むしろ景時以上に驚いていたのは、はるかのほうだ。声は聞こえなかったが、咄嗟に読唇術で読んだ篤史の言葉は、こう言っていた。(ここでは君も私も一警察官でしかない)・・・ソフィアが姫様なのは知っている。しかし、この言葉はまるで加賀警視正もただの警視正ではないかのようではないか。そういえば、彼が教えたのは「環境設計学」。それもかなり高度な思考と知識を兼ね備えたものと見る。しかも、亜矢から聞いたところでは、彼は忍びの者から剣術を教わったのだという。
 ・・・彼は一体何者なのか。

 翌朝、篤史が日課のジョギングから帰ってくると、もう少しで校門に入るというところに、私服のソフィアが立っていた。
「おはよう。」
 篤史が声をかけると、彼女は意を決したように言った。
「おはようございます、加賀警視正。昨日のことでお話があります。」
 二人は校舎からは見えないはずの舗道に移動した。
「昨日は失礼いたしました。貴方の暖かさについ甘えてしまいました。でも、貴方を巻き込むわけにはいきません。もう甘えないつもりです。」
「ソフィア・・・。」
 やはりその話だったか、篤史はソフィアを見つめた。彼女は彼の視線を晒そうと懸命なようだった。
「ソフィア、僕が一時の感情で君を抱きしめたと思う?少し前から君に惹かれていたんだ。好きな女性の涙を見て、抱きしめないような男がいたら、そいつはとんだ大まぬけ野郎だ。」
「好きな女性・・・。」
 ソフィアはまさかという表情で彼を見た。
「そう、僕は君を好きになってしまった。もう男としてしか君を見られない。だから、君が誰かなんて関係ないと昨日あのとき誓った。」
「そんな・・・。」
 彼女は悟った。彼は心から自分を愛してくれているのだ。
 声が震える。ささやかな願いかもしれない。わずかなあいだでも恋がしたい、この人となら・・・。その温かい胸に抱かれていたい・・・。
「・・・それではせめて約束してください。貴方との恋は、ここにいるあいだだけにしておくと。」
「わかった。」
 篤史は答えた。しっかり彼女を見つめ、きつく抱きしめながらキスした。互いの鼓動が聞こえた。

 それからは、二人は数日おきに学校から少し離れた公園のベンチで落ち合って、抱き合ったり、一緒に食事に行ったりした。
「僕のことは『篤史』と呼んでくれ。」
(もう恋人同士なんだから・・・。)篤史はその言葉を呑み込んだ。『恋人』という言葉を使ったら、きっと彼女は自分を巻き込むことを恐れて、プライベートでは会ってくれなくなるだろう。
 ソフィアも、この人といられるのは、卒業式までのことで、帰国後は、この温かい胸は思い出として秘めておこうと思っていた。この世から去らなければならないその日まで・・・。

二〇.生命の時計

 九月、資格試験を一週間後に控えた土曜日の昼である。神崎リュウが日替わり定食のプレートを持ってソフィアのそばに来た。
「ソフィア警視、お向かいの席で食べていいですか?」
「えぇ。もちろん。」
 ソフィアは、少なめのパンセットを食べ終えて、コーヒーを飲んでいた。
「実は、以前から警視に是非とも伺いたかったことがありまして。」
「あら、何かしら?」
「ライランカの髪は遺伝なんですか?僕はずっとこのままなんでしょうか?」
「んー、貴方がどうしてそんなことを訊くのかはわからないけど、結論を言うと、そうなるでしょうね。ライランカ人は、国を離れても百年くらい髪の色が変わらない。貴方の髪にライランカの色が残ったままになっているのは、遺伝とも言えるし、そうでないとも言えるの。」
「やはり、そうですか。小さい頃から、ずっと調べてたんです。でも、遺伝という説と、後天的な理由だという説と、両方あって。母に訊いても教えてくれません。周りにライランカ人は他にいなかったものですから。」
「そうだったのね。」
「もうすぐ資格試験です。もし落ちたら、もう貴方には訊けなくなると思って。」
 入学式の日、篤史が一年後の資格試験で巡査の資格を取れなければ退学扱いにすると宣言したことを思い出す。あれは、各自の覚悟を試す事前審査だったのではないかと、訓練生たちはしばらくしてから察するようになっていたのだが。
「なるほどね。でも、試験に落ちるなんて事はないわ。貴方、ずっと警察官を目指して頑張ってきたんでしょう?それに何より、私たちが指導したんだもの。合格するわよ。ただ油断しなければの話、それだけよ。」
「わかりました。どうもありがとうございます。やっと胸の支えが取れました。だけど、なぜ母は教えてくれなかったのでしょう・・・。僕がこんなに悩んでたのに。」
「それはね、この色の原因が科学的にまだわかっていないからなんです。私たちは、守護精霊テティスのご加護と呼んでいるけれど、もし科学的にわからない何らかの成分のせいだとすると、他国の人から忌み嫌われ、恐れられるかもしれません。そういうわけで、貴方のお母様もできるだけ口外しないようにしていたのでしょう。」
「守護精霊テティス・・・その名前は母からも聞いています。」
「ただね・・・。これだけはわかってほしいの。どの人も、国籍や人種、性別、世代なんか選べないまま生まれてくるってこと。全てが偶然なのよ。偶然に起きたことに、悩んだり悲しんだりしても仕方がないわ。貴方もそう思うでしょう?」
(そう。私も運命に悩んで悲しんでる・・・。)

 警察官の資格試験は、オルニア警察本庁・体育館で実施された。筆記試験と容疑者確保技能の実技がある。
 アイユーブ警察学校の訓練生たちは、みな見事な成績で巡査資格を突破していった。
「さすがに貴女と加賀警視正がご指導されただけのことはあるわね。」
 大谷好子が言った。ソフィアが警視になった時の面接官の一人である。あの日以来、彼女はソフィアと手紙のやり取りをしてきた。機会があれば会っていろいろな話もした。今ではすっかり親友と呼べる間柄だ。
「いいえ、それだけじゃないわ。皇帝陛下のお力も大きいし、みんな、本当に心から警察官になりたくて訓練を重ねてきた人たちばかりだもの。巡査資格くらいは軽く通らなくっちゃ。」
「大変なのは、これからってことね。」
「そう。あと一年・・・。」
 ふと、ソフィアに悲しげな表情が浮かぶ。
「どうかしたの?」
 好子が訊くと、ソフィアは親しい友の声に心が溶け出しそうになった。涙が出てくる。
「泣いてるの?」
 好子は突然の友の涙に驚きながら、その背中をさすってやる。
「ねぇ、何か悲しいことがあるんだったら話して。私たち、もうお友達じゃないの。」
 ソフィアは、もう隠し切れないと思った。
「好子、私はもうあと四年しか生きられないの。余命宣告を受けているのよ。」
「え?」
 好子は愕然とした。この言葉はあまりにも重すぎる。だが、ソフィアが本当のことを言っているのは明らかだった。
「・・・そうだったの・・・。」
 好子は優しくソフィアの背中をさすり続けた。それが精一杯だった。

「それで、そのことは加賀警視正もご存知なのね。」
 落ち着いた頃、好子が口を開いた。
「えぇ、ご存知よ。」
「それで、恋に落ちた、と。」
「え?」
 好子の顔はまたいつもの明るい顔に戻っていた。彼女はまず自分がいつもの自分でいることが親友のために良いことだと思ったのだ。
「や、やだ!そ、そんなんじゃ!」
「あらぁ、赤くなった!さては図星だな。ま、無理もないわね。私だって、もしまだ独身だったらって思うもん。」
「好子、いい加減にしないと怒るわよ!」
 ソフィアは笑った。
「はいはい、そういうことにしときます。」
(そうよ、ソフィア、それでいいの・・・。)

 資格試験の会場を後にして、訓練生たちが警察学校に戻ってくると、セルジオ・ツジムラと滝田光昭、周公沢、呉章英、それに職員一同が迎えに出ていた。
「整列!」
 訓練生たちが素早く整列する。
 先頭に立っていた篤史が言った。
「出迎え有難う。全員、合格した。」
 出迎えた人々から拍手が起こった。
「みんな、今日は本当にご苦労だった。もう疲れているだろうから、全てはまた明日にする。明日は、九時から特別朝礼を開く。全員、今日支給された制服を着用して参加するように。以上だ。解散。」
 敬礼ののち、各自が自室に戻っていった。

 光昭が景時に話しかけた。
「君も今日からは警察官だね、藤原君。」
「滝田警部。皆さまのおかげです。」
「いや、合格できたのはあくまでも君自身の結果さ。毎晩夜遅くまで鍛えているみたいじゃないか。」
「ご存知だったんですか。」
「僕だけじゃない。職員もみんな知ってるよ。訓練生たちがみんな夜遅くまで訓練を続けていたことはね。」
「実はそうなんです。しかし僕はみんなから教わってばかりでした。」
「本当に立派になった。おめでとう、藤原巡査。」

 訓練生たちがそんな風に会話しながら離れていくのを篤史とソフィアは微笑ましく見送っていた。
「みんな、本当に立派になって。」
 ソフィアが言った。自分の後継者を誰に選ぶかはまだ決めていなかったが、一生懸命訓練に励んで目標を達成した者たちの顔を見るのは、とても清々しい気持ちだ。
「君も疲れただろう。おやすみ。」
「あの、篤史・・・。」
「うん?」
「好子が、いえ、大谷警視が・・・。」
「はは、誰だかすぐ分かるよ。彼女、君とは親しくなったんだろ?」
 篤史は、彼女とは同じ職場で長かった。ともすると沈みがちになるソフィアの心を彼女が明るく照らしてくれていることを、内心では嬉しく思っている。
「それで、大谷君がどうした?」
「私、余命宣告のこと話してしまったの。」
「そうか・・・。」
「彼女、驚いてたみたいだったけど、しばらくハグしてくれて。」
「うん。」
「それに、貴方とのこと、恋に落ちたか、なんて言われちゃった。」
 彼女なら、きっとそうするだろう。彼女は、大きな優しさをはち切れんばかりの笑顔の中に宿している。
「仕方ないだろう。本当にそうなんだから。どうやら僕たちは周りの誰からもそう見えるらしい。僕にはそのほうが都合がいいんだが。」
「篤史、私たちは・・・。」
 ソフィアは、それから先の言葉を呑み込み、そのまま女子寮へ走りだそうとした。
「あ、ソフィア、走っちゃいけない!」篤史が叫んだ。
「今は引き留めないから・・・。」
 彼女は走るのをやめ、早歩きで振り向かずに去って行った。
(ソフィア、君を苦しめてすまない・・・。でも僕はもう将来を決めてるんだ・・・。)

 翌朝九時、グラウンドに訓練生たちが集まっていた。篤史とソフィアが壇上に上がると、綺麗に整列し、一斉に敬礼する。
「みんな、おはよう。こうして真新しい制服を着て凛々しく並んでいる諸君を見ていると、本当に誇らしい限りだ。よくやってくれた。」
 篤史は全員の顔を確認するように見渡した。
「さて、通常の訓練を終え、これから我々は未知なる高みを目指す。改めて紹介しよう。忍びの技を伝授してくれる春野亜矢君と今井はるか君だ。上がってくれたまえ。」
 二人は篤史に促されて壇上に上がった。
「忍びの技はまだまだたくさんある。卒業まで、多くを学ぶように。なお、今日から三日間、水曜日の夜まで休みとする。各自、改めて復習するもよし、制服姿を誰かに見せに行くもよし、とにかく息抜きしたまえ。ただし、制服を着て出る者は、事前に私の許可を取りに来ること。以上。」
 朝礼は、そのまま解散となった。

(これからすぐ立てば、父さん母さんに会えるけど・・・。)
 リュウは迷った。だが、まだ訓練中で卒業していないのに何故帰ってきたかと叱られる可能性のほうが高い。
(やっぱり帰らずに訓練を続けておこう。そうだ、手紙ならいいだろう。)
 景時には、特に行く宛てがない。もし行くとしたら両親の墓参りくらいだが、二泊三日では、慌ただしいような気がする。今回は止めておこう・・・。
 中林肇の実家も遠かった。この男三人組は普段から仲が良く、三人とも残ると知ると、三日間を訓練で過ごそうということで話がまとまった。
 他にも矢吹真知子、佐藤明日香ら、女性を含む多くの訓練生たちが残ることを決めた。
 ジェシカ・ティスードは、亡き父の墓前に報告しに行こうと思った。ここからは半日あれば帰ってこられる町にある市民墓地公園だ。母も同じ町に住んでいる。
 はるかは和菓子屋の夫婦を思い出していた。「凛々しい制服姿を見せに来ておくれよ。」・・・。それが別れ際の女将の言葉だった。
(女将さん・・・。)
 こういう訳で翌朝、はるかとジェシカの二人がそれぞれ制服で外出することになった。

ここから先は

0字
全記事が無料。寄付歓迎マガジンです。お気に召したら、サポートお願いします。

長編仏教ファンタジー「ルシャナの仏国土」第2編。 毎週木曜日更新。(全9回・2024/5/31に完結) 「覚者編」から千年後、新たに自然と…

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは創作活動費に使わせていただきます!